真夜中の廊下を、手にした蝋燭の灯りだけを頼りに、ラグナは独り歩いていた。
 神聖な教会の敷地内とはいえ窓一つないそこは酷く暗く、幽霊の類いが苦手な少年にとって、今の時間帯のここは苦手な場所だ。
 けれど、それも普段だったらの話だ。シンと静まり返った夜の空気に反し、今日のラグナの心は浮わついていた。
 一昨日から熱を出していた妹の容態が、漸く落ち着いたからだ。

 ラグナには、幼い弟と妹がいる。弟の名はジン、妹はサヤ。親のいないラグナにとっては、唯一の肉親だ。兄さん、兄さまと自分を呼び慕いながらピヨピヨと後を付いて回る弟妹は可愛くて仕方がない半面、とても手が掛かる。
 特に妹のサヤは、生まれつき体が弱かった。あまりに高い術式適性が災いしているのか、普通の子供にとってはただの風邪でも、妹にとっては命取りになりかねない。それは今回の発熱も例外ではなく。
 倒れた日からずっと苦しそうだった妹の呼吸が穏やかな寝息に変わったのは、三日目の夜がだいぶ更けてからだった。
 安堵の息を吐く兄の頭を、養母である年老いたシスターは慈愛と労いを込めて撫でてくれた。そして、「明日はジンとたくさん遊んであげなさい」と笑ったのだ。
 そこで漸く、ラグナはサヤに付きっきりだったこの三日間、ジンの姿を殆ど目にしていない事に気付いた。そして養母に名を出されるまで弟の存在に思い至らなかった己に、ラグナは胸を突く様な罪悪感を覚えた。
「…あいつ、泣いてなかったか?」
 今更とも思ったが、心配なものは仕方がない。ただでさえ、兄にべったりで甘えたがりの弟だ。寂しい思いをしていたのではないか、一人で泣いてやしなかったかと、ラグナはシスターに問う。
「そうね、寂しそうでなかったと言ったら嘘になるけれど…。あなたたちの分もお手伝いをしてくれて、ジンは偉かったわ。ラグナからも、褒めてあげてね」
 あなたに認められるのが、ジンには一番嬉しいだろうから。養母の言葉に、根っからの兄気質の少年は面映ゆそうに頷くのだった。

 暗闇のせいか、昼間歩くより長く感じられた廊下を抜け、ラグナは久方ぶりに自室の前に戻った。本来、ラグナたち兄弟の部屋は並べて割り振られてある。しかしサヤが体調を崩した時は話が別で、少し離れたシスターの私室の隣の空き部屋を使っていた。
 後二、三日安静にしていれば、サヤも自分の部屋に戻れるだろう。
 大きな欠伸を一つこぼし、ラグナはドアノブに手を掛け、押し開ける。と、カーテンを開け放したままだった窓の外には、大きな月が一つぽかんと浮かんでいた。
 丸々としたその姿は大きく重く、なるほど「月が落ちてくる」と言っては泣く弟の気持ちが少しだけ解るような気がする。
 さて寝るかとベッドに視線を移し、そうしてラグナは固まった。情けない悲鳴は上げずに済んだが、人間本当に吃驚した時は得てして声が出ないものである。
 誰もいるはずのない自室。小さな机と、窓際に置かれたベッドだけの質素な室内。そのベッドの上のシーツが―――こんもりと膨らんでいる。
(まさか、幽霊…とか !? )
 自慢ではないが、幽霊やお化け等の話がとんと駄目なラグナだ。自分の頭が導き出した可能性に、ザッと顔が青褪める。
 とりあえず、万が一声が出てしまってもいいように、蝋燭を持つのと逆の手で口を塞いだ。が、問題はここから先だ。謎の膨らみにベッドを占領されている以上、そこで眠ることは出来ない。というか、したくない。ならば、隣の部屋で寝ている弟に助けを求めるしかないのだが、それは兄としての威厳が許さなかった。それに泣き虫な弟の事だ、幽霊が出たなどと言おうものなら、自分以上に怯えきってしまうだろう。
(どうしよう…)
 ラグナが途方に暮れはじめたその時、シーツの塊がもそりと動いた。「ひっ!」と喉を上がってきた声は、手のひらで蓋をされていた口の中に消える。
「ん…」
 けれどシーツの中から聞えてきた聞き慣れた声に、ラグナは目を瞬いた。もそもそと蠢いていたシーツが大人しくなるのを待って、ゆっくりと近付いてみる。
 何となくこの膨らみの正体はわかったが、まだ油断は出来ない。
 ベッドサイドのテーブルに蝋燭を置き、シーツ手を掛けそっと捲る。そこには果たして件の弟―――ジンの姿があった。小さな体を更に小さく丸め、すうすうと寝息を立てている。月明かりと蝋燭の火が、枕に散らばった弟の金髪を柔らかく照らした。
 ―――入る部屋を間違えただろうか?
 とりあえず幽霊の類いではなかった事にほっと胸を撫で下ろし、兄としての反射で弟にシーツをかけ直してやってから、ラグナははてと首を捻った。部屋を見回しても、散乱した机の上やこれだけは綺麗なままの聖書を見るに、確かにここはラグナの部屋だ。間違ってはいない。
 そうしてもう一度、兄は弟の寝顔に目をやった。よく見ると、子供らしいふっくらとした頬には幾つもの涙の跡が残っている。
 兄のベッドに潜り込んで泣いていた弟と、空の満月。
 ラグナに構ってもらえない寂しさが募っていたところに見えたそれに、ジンの我慢も限界を迎えたのだろう。兄に泣きつけないのならせめてと、ラグナの部屋で頭からシーツを被り、一人泣いていたに違いない。
「この泣き虫…」
 それでもジンがラグナの所に来なかったのは、妹の看病をしている間は余程の事がない限り、彼女の部屋に近付いてはいけないと強く言い聞かせているからだ。
 そんなラグナに養母は何か言いたげにしていたが、気付かないふりをし続けている。ラグナとて、何の理由もなくそう言っている訳ではない。

 ジンをサヤの部屋に入れないのは、弟に病が感染ってしまうのが恐いからだ。

 揃いの髪と目の色以外、弟妹と似たところのないラグナと違い、ジンとサヤはまるで双子の様にそっくりだ。今は病気一つしていないジンだが、一度体調を崩したが最後、弟まで病魔に見入られる体質になってしまうかもしれない。
 瓜二つの、妹と同じ様に。
 ―――弟も妹も、自分一人を置いていなくなってしまったら…。
 この不安が現実になってしまう事が、ラグナには何よりも恐ろしかった。
 けれど、それが結果的にこうしてジンに寂しい思いをさせ、泣かせてしまっている。
「ジン…」
 きりきりと痛む胸を押さえ、、せめてと小さな頭を撫でてやれば、閉じていた瞼がひくりと動いた。
 二度、三度、長い睫毛が重そうに瞬いて、漸くラグナの姿を瞳に映す。
「にい、さ…?」
「悪い、起こしちまったな…」
 久しぶりに聞いた自分を呼ぶ弟の声に、自然と口元が緩む。
 ―――ここまでは、良かったのだ。良かったのだが…
「ふ…ぇ…」 
 こちらを見上げる大きな翡翠に、みるみる涙が溜まっていく。ラグナがぎょっと目を見張っている間にそれは呆気なく溢れ、遂にジンは小さな肩を震わせながらボロボロと泣き始めてしまった。
「え、ちょ…おま…っ」
 まさか、目覚めた途端泣かれるとは思わなかったラグナだ。
 慌てて手のひらで弟の涙を拭ってやっても、それは止まるどころか更に零れる量を増し、ラグナの手を濡らしていく。
 このままだと、ジンの小さな体から全ての水分が出て行って、干からびてしまうのではないか。思考の行き着いた先にぞっと肩を震わせたラグナは、シーツの端を手繰り寄せ、弟の目元に押し付けた。
「ほらジン、泣くなって」
「ごめ…なさ…」
 嗚咽の合間から聞こえた謝罪は、何に対してか 。兄の部屋に勝手に入った事、泣きやむ事が出来ない事、それとも―――
 とにかく、このままでは埒があかない。ああもうと自分の髪を掻き回すと、ラグナはシーツを捲り上げ、弟の隣に潜り込んだ。未だぐずぐずと鼻を啜っているジンを抱え込み、あやすとは程遠い仕草で頭を撫でる。
「泣くなよ。男だろ?」
 コツ、と額を合わせて弟の顔を覗き込めば、しゃくり上げながらも首を縦に振るのがいじらしい。
「にい…さ…」
「おう」
「つき…」
「大丈夫だ。あんなもん落ちてこねぇって、いつも言ってるだろ?」
「やだ、こわいよ…にいさん…」
「大丈夫だから。もし落っこってきても、俺がついてる。ジンもサヤも、兄ちゃんが守ってやるから…」
 だからもう眠ってしまえと、弟の体をぎゅうと抱き締めた。小さな金色の頭を自分の胸に押し付けて、窓から覗く月が見えないようにしてやる。泣いている弟の体は、さっきまで眠っていたのも相まって、ほこほこと温かい。
 頬を寄せたジンの髪からは、昼間にたっぷり日差しを浴びたのか、夜になった今でもほんのりと日向の匂いがする。
 ラグナの心音と温もりに安心したのか、ジンの嗚咽が寝息に変わるまで、然程時間は掛からなかった。弟の手が自分の服の裾を掴んでいる事に妙な誇らしさを感じ、ラグナもまた目を閉じる。
 ―――そういえば、明日からは一緒に遊んでやれる事、兄妹の分もシスターの手伝いを頑張った労いを、弟に言い忘れてしまった。伝えようにも弟は既に寝入ってしまっているし、付きっきりの看病で疲れの溜まっているラグナの体も、早々に眠りの中へと落ちて行こうとしている。
 僅かな逡巡の後、ラグナは睡魔に抗わず、身を委ねる事に決めた。
 どうせ今夜はこのまま一緒に寝るのだし、ジンには朝起きて一番に頭を撫でてやればいい。そうすれば弟は、花が綻ぶように笑うだろう。
 何も急ぐ事はないのだ。明日も、明後日も、そのずっとずっと先も。

 自分たち兄弟は、ずっと一緒にいるのだから―――



→next