「黒き者は…消えなければならない…。だから駄目だ…兄さん。行っちゃ、駄目だ…」

 大聖堂に満ちる光が、ここにある全てを照らしている。
 縋る様に服の裾を掴む、細い指を。襤褸切れの様に傷付いた腕を。
 そしてその先に続いている、離れていた年月だけ成長した弟の顔を。
 それら全てを、ラグナは歯噛みする思いで睨みつけた。
 先刻まで弟の―――ジンの身を取り巻いていた狂気は、すっかり鳴りを潜めている。しかし正気に戻ったかと言われれば、それもまた違うようだった。
 あのウサギといいこの弟といい、どうして誰も彼もラグナに訳の解らない事ばかり言ってくるのか。
「兄さんじゃ…駄目なんだ。何も…変えられはしない…」
 ぐらぐらと揺れる瞳で、弟は必死に兄の姿を探していた。意識を手放す寸前の目は、もう殆ど見えていないだろう。兄さん、ラグナを呼ぶ声は弱く、まるで道に迷った子供のようだった。
「兄さんは…死ななければ…。だから僕が…僕が、殺さなきゃ…」
 血にまみれた頬を、翡翠から零れた幾筋もの涙が洗っていく。
 泣くほど殺したいのかと、嗤おうとしたが上手くいかない。
 ラグナが震える唇を開いては閉じ、結局噛み締めるだけに終えた間に、ジンは気を失ってしまった。それでも服を掴む指だけはそのままなのだから、大した執念だ。
 ごとりと大理石の床に沈んだ、金色の後頭部を見下ろす。無防備に晒された背中に剣を突き立てれば、この胸に渦巻く怨みも憎しみも終わるのだろう。
 同じようにしてやればいいのだ。
 あの日、焼け落ちる教会の前で、弟が兄を斬り捨てたように。
「くそ…っ」
 ずっと怨んでいた。
 憎めていると、思っていた。何の根拠も無く。
 眠る度に見るものが十年前の悪夢でも、空に浮かぶ満月を仰ぐ度思い出すのは、月が落ちてくると言って泣く、小さな弟の姿だったのに。
「この泣き虫小僧が…」
 一つ頭を振って、ラグナは身を屈めた。
 意識を失って尚、兄をこの場に繋ぎ止めている弟の手を、自分の服から外していく。丁寧に。
 手の中に収まったそれは、柔らかくも暖かくもない、華奢さばかりが目立つ青年の手のひらだった。
「縦ばっかり、ひょろひょろ伸びやがって」
 文字通り捨て身で掛かってきたジン相手に、手加減なんて出来なかった。命に別状はないだろうが、かと言ってこのまま放っておけばそれもわからない。せめて止血くらいはしてやりたかったが、人の命を喰らう事しか出来ない死神に治癒の術式など使える筈もなかった。
 ならば一刻も早く窯を破壊し、ここへ戻ってくるのが得策だろう。
 弟には聞きたい事も、言いたい事も山程ある。

 だから―――こんな所で死なせてやる訳にはいかない。

 手を伸ばし、床に伏した頭を撫でる。左の手、グローブ越しでもわかる、さらりとした髪の感触。未練がましくもその手触りを覚えていた自身の指先に、ラグナは諦念の溜息を吐いた。
 惹かれるように、金色の旋毛に唇を寄せる。
 瞼を伏せ五感の一つを閉じると、濃度を増した血のかおりに混ざって、懐かしい弟の匂いがした。
「黙って寝てろよ、クソガキ。…月が落ちてくるぞ」
 そうして立ち上がると、ラグナは一人カテドラルの奥へと向かっていく。
 後ろを振り返る事は、しなかった。