こうなってしまったのは、ただの偶然だった。 食事の後の、短い休憩時間。最近すっかり一緒にいることが少なくなってしまった――― 刹那がトレミーに帰ってきて、そして”彼”もいるからだ、ハロを両腕に抱え、私はいつものように展望室へと向かう。 音を立てて開いたドアの向こう、手すりに肘をついた格好で宇宙を見つめる”彼”がいた。みんなと同じ作りの制服を着た背中は、未だ見慣れる事が無い。それよりも尚、あの人と同じ顔で、同じ声で、けれど全く知らない空気を纏う彼の存在は、見かける度に私の足を竦ませるのに充分だった。 ライル・ディランディ。ロックオンの――― ニールの双子の弟。 戻ろう。そう思うより早く、ハロが腕の開閉部をぱたつかせながら、彼の元へ飛んでいく。ロックオン、ロックオン。 違うよ、ハロ。その人は、ロックオンじゃない。 「どーしたの?そんな所にぼーっとつっ立っちゃって」 はっとして顔を上げると、片手でハロをあしらいながら、ライルが私を見ていた。 「入れば?」 言われてしまえば、立ち去る事も出来ない。重い足を動かして、展望室の中に入る。手招かれたから、少しだけ距離をおいて隣に並んだ。 「しっかし、こうして上がってきて見ると、宇宙って何にもないのな。これなら地球から空見てる方が、ずっといい」 喋ることで空気を和まそうとするところは、ロックオンと似ている。ただその言葉は上辺を滑るばかりで、ちっとも私の中に入ってこない。 記憶の中のロックオンに、四年分の時間を重ねただけのライルの横顔を、そっと見上げる。 違うと解っていても、彼の中にロックオンを探す事を、止める事ができない。 「――― フェルト、って言ったっけ」 ふ、と息を吐いて、窓の外を見ていた目がこっちに向けられる。 「……はい」 「…あんまさぁ、男をそういう目で見ない方がいいと思うよ?」 「え…?」 「勘違いされても、文句は言えない」 その言葉の意味を問うより早く、頬の形をなぞるように動いた指に顎を掬われた。 ふわりと、私を取り巻くタバコの匂いが濃くなる。 顔を擽る癖の強い茶色の髪よりも、唇に押し当てられたかさついた熱に、頭の中が真っ白になった。 焦点がぶれる程近くでかち合った、あお。すっと、細められる。 ――― これは、何? ゆっくりと顔を離したライルは、未だ動けないでいる私を見、目を瞬かせて小さく首を傾けた。 ああ、こういう仕草は泣きたくなる程同じなのに。 「あれ、違った?…好きだったんじゃないの?兄さんのこと…」 皮の手袋に包まれた親指が、からかう様に唇を掠めていく。 そうか。私、キス、されたんだ…。 「それとも…初めてだったとか?」 口の端だけを吊り上げて笑われた瞬間、カッと頭に血が昇ったのがわかった。怒りで眩暈がするなんて、初めての経験だった。 気がついた時にはもう手を振り上げていて、私は強かに、目の前のライルの顔を引っ叩いていた。風船が割れたような破裂音と、手のひらに残る軽い痺れ。まさか平手を食らうなんて思ってなかっただろう証拠に、碧の目が大きく見開かれている。そこに剣呑な色が混じるまで、そう時間はかからなかった。 「……んのヤロ――― っ !?」 ぐ、と正面から睨まれた所で、視界の中から外れている彼の足に、ブーツの踵を思いっきり落とす。昔、「地上で変な人に声かけられたら、まず大声を出すの。それから、こうやって逃げるんだよ」って、クリスに教えてもらったやり方だった。潰れたような呻き声を上げて蹲ったライルの頭目掛け、それまでずっと黙ってたハロがぶつかったのを尻目に、私は逃げるように部屋の中から廊下へ飛び出した。 背中からはまだ言い合いをする一人と一体の声が聞こえていたけれど、早くあの部屋から離れなければと気ばかりが急く。掴まったバーのスピードがもどかしくて、結局壁に手をついて床を蹴った。服の袖で唇を擦っていたら、ふいに視界がぼやけてきて、慌てて瞬きを繰り返す。けれど、やっぱりダメだった。なんで、どうしてとそればかりを頭の中でぐるぐる繰り返し、小さな子供みたいにぽろぽろ涙を零しながら、私の足は自然と格納庫の方へと向かう。 どうしようもなく、今。刹那の顔が見たかった。 ガンダム四機のメンテナンスが終わった格納庫は、カレルの一台もいなくて静まりかえっている。その中で、エクシア――― 違う、今はダブルオーガンダムのコックピットハッチだけが空いていた。足場を伝って、そこへ急ぐ。掴んだ鉄鋼がカシャンと鳴ったけど、気付いて欲しかったから構わなかった。 「刹那…」 私から声をかけるまでもなく、コックピットの中を覗けば、こっちに背中を向けてしゃがみ込んだまま、首だけを巡らせた刹那と目が合った。深い紅茶色の瞳が、少し見張られて、瞬く。 「フェルト・グレイス…?」 人をフルネームで呼ぶ癖は、四年経っても直ってない。端末を手にしたまま、刹那は立ち上り少しだけ背を屈め、私の顔を覗き込む。そこに随分と解り易くなった労わりの色を見つけて、また新しい涙が零れた。 「…どうした?」 「刹那…っ!」 途端に頭の中がぐちゃぐちゃになって、たまらず目の前の刹那に飛びつく。数歩踏鞴を踏んだ刹那の踵が散らばった機材に躓いて、二人してコックピットシートに倒れこんだ。 「何で…」 いきなり泣かれて抱きつかれて、刹那はきっとすごく困ってる。それでも私が行ける場所は、ここしかなかった。 「何で、あの人連れてきたの…?」 「……ロックオンに何かされたのか?」 刹那の言葉に、私は勢いよく首を横に振る。あんなの、犬に――― 私はホンモノの犬なんて見たことなかったけど――― 噛まれたようなものだ。だったら、何てことない。あの人は、私の知ってるロックオンじゃない。だから、平気。 ――― 平気な、筈なのに… 「だって…違うの。顔も、声も同じなのに…知らない顔をするの」 私を呼ぶ声は、いつだって優しかった。何の躊躇いもなく触れてくる大きな手のひらに頭を撫でられるのが、大好きだった。ロックオンにとって私は、きっと遠くに亡くした妹と同じで、親愛以上のものなんてなかった。 なのに、あの人は違う。揶揄を含んだ声音、頬を滑ったグローブ越しの指。初めて唇に落とされたキスは、ロックオンからはしなかったタバコの匂いがした。 まるで、ずっと大切にしていたロックオンの思い出を、あの人に踏み躙られたよう。悲しくて、悔しくて、涙が止まらない。 でも、本当に悲しいのは、それに揺らぎそうになった私自身。 だめだ。全然、平気じゃない。 フェルト、と刹那の低い声が耳を震わせる。 「…あいつは、俺たちが知っているロックオンじゃない」 コードネームを継ごうと、ライルはライルだ。ニールじゃない。そう言いながら私の頭を撫でる刹那の手こそロックオンのそれと同じで、まるで私の知ってるロックオンが二つに分かれてしまったみたいで、息が詰まった。 「だから、あんたが泣く必要なんかないだろう」 「……ぅ、あ…ぁ、ああぁぁぁっ!」 堰を切ったように声を上げて泣き出した私の背中を、刹那はただ黙ってあやすように優しく叩く。 刹那は、初めて彼の姿を見た時に何を思ったんだろう。 やっぱり、私たちの知らないロックオンに、ニールの面影を重ねたんだろうか。 だけど、刹那は間違えない。刹那の言葉に、嘘なんてない。刹那もロックオンが大好きだったから…ううん、今もずっと好きだから、間違えないし、揺るがない。 ――― ああ、刹那は強いね。 わかりきっていた筈の喪失を、今になって突きつけられた私にも、その強さを分けて欲しい。 言いたいことが上手く纏まりません。 遅れてやってきた喪失の話。 フェルトがライルをライルとして見てくれるなら、ライフェルでもいいです。 2008.10.26 |