茹だるような、暑い夏の朝だった。

 階層都市全体で適切に管理されている筈の気候は、ここ連日息も詰まるような気温と湿度を叩き出し続けている。茂った木々の葉を揺らすそよ風一つ吹く事なく、縁側に吊るされた風鈴も何処か所在無さげに垂れるばかりだ。打ち水代わりの雨ですら、最後に降ったのは十日程前だったか。後数日、気候の改善が見られないようならば、一度気候の管理部署に人をやった方がいいかもしれない。
 ―――久方ぶりに私室の寝床で目を覚ましたというのに、起床一番に頭を過ったのが仕事の事だとは。
 世界虚空情報統制機構最高指令官カグラ=ムツキは、布団の上に上体を起こし、うんざりと首を回した。せっかくの休日だというのに、寝覚めの悪いことこの上ない。汗で額に張り付いている髪を掻き上げ、一つ欠伸を溢す。夜着にしてる浴衣も同じ有様で、寝る前に浴びた湯はすっかり無駄になってしまっていた。
 布団の上に胡座をかいたまま、カグラは手探りで近くに置いてあった煙草盆を引き寄せる。その中から黒檀で造られた煙管を手に取り、刻んだ葉を詰め火を点けた。
 カグラは酒は好めど、煙草に関しては愛煙家と言う程嗜んではいない。けれど当主襲名の折りに何処ぞの宗家から贈られた煙管はカグラの嗜好に合う造りだったので、時々こうして火を入れている。何より、気分転換には打って付けだ。
 そうして紫煙を燻らせはじめてから、いくらもしない内だった。

「…煙草臭い」

 カグラの隣、こんもりと盛り上がった上掛けの中から、不機嫌極まりない声が聞こえたのは。
 突然の不平に気を悪くする事もなく、むしろカグラはゆるりと口許を緩める。武骨な剣士の掌が、宥めるような手付きで布団を叩いた。
「まだ寝てても平気だぞ?ジンジン」
「…誰のせいで起きたと思ってる」
 羽毛で出来た繭の中から顔を出したのは、漸く成人を迎えるか否かの、若い青年だった。金の髪に新緑の瞳と日向の色を集めた彼は、その恐ろしく整った面をしかめ、絶対零度の視線をカグラに向けている。
 面妖な呼び名は、カグラの親戚の青年が彼に付けた愛称だ。当たり前だが、本名ではない。ただ四角四面の仏頂面が常の優等生を甘やかすには、とてもわかりやすく都合が良くて、カグラは気に入っている。
 カグラが筆頭を務める十二宗家が一つ、キサラギ家の次期当主最有力候補、ジン=キサラギ。それがこの青年の名前だった。他にもイカルガの英雄、統制機構史上最年少師団長と、彼を彩る肩書きは多い。

 そこにもう一つを加えるならば、彼は昨夜に枕を共にした、カグラの夜伽の相手だった。

 呆れたことに、頭からすっぽりと布団を被っていたにも関わらず、ジンは汗一つかいていない。その身の内に飼っている、氷を操る事象兵器のせいだろうか。腕に抱えれば涼しいのだろうが、それも力と引き換えに使用者の精神を蝕むアークエネミーの影響と思うと、素直に歓迎出来なかった。
 むくりと身を起こしたジンの目は半分しか開いておらず、それもじっとりと据わってしまっている。体温が低いのだから、血圧も同じなのだろう。柔らかい質の金糸はあちこち無造作に跳ねていて、そこだけがギリギリで寝起きの彼に可愛いげを持たせていた。
「何だ、俺の腕枕が無いと眠れないか?」
「死ね」
 軽口に暴言で返すところは、一度寝た程度では変わらない。その事に少しだけ安堵したカグラは、昨晩同衾した相手とは思えぬ軽さでジンの髪を撫でつけた。常ならば触れた途端に手を叩き落とされているところだが、珍しいことに目の前の青年は、未だ男のされるがままになっている。恐らく、思考が追い付いていないのだろう。カグラの手の動きに合わせ、小振りな頭をぐらぐらと揺らしている。
 それが理由かは知らないが、ジンにしては気付くのが遅かった。一つ欠伸を噛み殺した青年は、ふと視界に入った己の様子を認識した途端、音を立てて固まった。そのまま三秒程停止してから、ゆらりとカグラを見上げ―――否、睨み上げる。
「…何の真似だ、これは?」
 正しく、地を這うようなと言うに相応しい声だった。
 ジンの指すところの"これ"とは、彼が纏う目にも鮮やかな真紅の長襦袢だ。昨晩の後始末ついでに、カグラが夜着の代わりに眠るジンに着せたものである。しかも袖や裾がひらひらと改造された造りは、明らかに女物のそれだった。
「何って、ちょっとした遊び心だよ」
 白い肌に情交の痕を幾つも散りばめ、紅い着物を羽織っただけのジンの姿は朝陽の下で見ても中々に刺激的だ。煙管を咥えたまま立てた膝に頬杖をつき、カグラは悪戯が成功した子供の顔で笑う。
「いい生地だろ?前から思ってたんだよなぁ。凛とした蒼もいいが、お前には紅(あか)も似合うんじゃねぇかってさ」
 男の見立てに狂いは無く、華やかな紅は性別の薄いジンの容姿によく栄えた。自分の仕事ぶりに満足そうに頷くカグラを尻目に、ジンは襦袢の袖を鼻先にもっていくと、すんと小さく鼻を鳴らす。途端心底嫌そうに、整った造りの顔を歪ませた。
「…粉の匂いがする」
 ―――そんな事だろうと思ったが、どうやらこれは何処ぞの女の御下がりらしい。そもそもカグラがこんな物を持っている時点で、分かりきっていたことだったが。ぱちり、と紫石英の目を瞬かせた男は、悪びれるでもなく暢気に首の後ろを撫でている。
「おかしいな、洗濯は済んでる筈なんだが…」
「最悪だ。煙草臭い上に、化粧臭い。着物の色も暑苦しい…最悪だ…」
 まだ眠いのか、むにゃむにゃと口内で文句を並べながら、ジンが掛け布団の上に倒れ込んだ。そのまま布団を抱え背中を丸める様は、起きたくないと愚図る子供そのものだ。
 けれど白い褥に広がる襦袢の紅や、その間から覗くしなやかな脚は、子供の幼さとは程遠い色香を放っている。これを無意識でやっているのだから、成る程質が悪い。
 それを証拠にジンは抱えた布団に顔を埋め、再びうとうとと微睡みだしている。まるで眠たい盛りの仔猫のようで微笑ましいが、生憎カグラの目はすっかりと冴えてしまっていた。寝ててもいいと言った手前申し訳なくもあるが―――昨晩は多少の無理もさせた事であるし―――、このまま二度寝と洒落込むよりは、久しぶりにゆっくりと話がしたい。ジンの見てくれだけでなく、その聡明さもカグラは気に入っていた。
「そうしてると、まるで金魚みたいだな」
 柔らかく撓む布地は、水の中でゆらり揺れる金魚の尾ひれに似ている。
 揶揄ついでに襦袢の裾を捲れば、今度こそ間髪入れずにその手を叩き落とされた。顔を布団に伏せたまま、翡翠の瞳だけがじろりとカグラを睨めつける。
「…あんな愚図で弱い生き物と一緒にするな」
「言うねぇ。俺は好きだぜ?水の中で優雅に泳ぐ姿は風情がある」
「ただの愛玩品だろう。そこに居るだけで、何の役にも立たない」
 一刀両断とはこの事だろう。男の戯れをばっさり斬り捨てると、ジンはふいと目を逸らし、完全にカグラに背を向けてしまった。
「―――僕は、飼い主の庇護無しに生きてはいけぬ屑とは違う」
 ぽつりと届いた呟きは、独白の域を出ていない。青年の細い背中は、酷く頑なだった。己を甘やかさないところはジンの美徳だが、彼の場合は少々行きすぎているきらいがある。

 ―――恐らく、自分を愛する事を知らないのだ。

「お前は何でも複雑に考えすぎだ。綺麗だって、誉めただけだろ」
 だがそれも、仕方のない事とは思う。
 宗家の中でも、キサラギは異端の家だった。実力主義を声高に叫び、能力のある孤児を集め、当主の座を争わせる。手段を選ばずとも構わない不健全な闘争心はやがて歪み、身内の筈の者同士による暗殺事が後を絶たない。
 いくら常人を遥かに凌ぐ文武の才を持つとはいえ、キサラギ家に引き取られた時のジンは、まだ十を幾つも超えていない幼い子供だった。その子供が―――それも類稀な美貌を持った少年が、あの家の中でどのような扱いを受けてきたか。たかが一人の少年に送り込まれ続けた異常な暗殺者の数も、男に抱かれる事に慣れた白い身体も、カグラは知っている。最も、後者は昨晩初めて知った事だったけれど。
 聞き分けのない子供を宥めるように、柔らかい金色の髪を梳いてやる。愛おしむように。
 口では何と言おうと、ジンはカグラの甘やかしに弱い。戯れのようなスキンシップは容赦なく拒否されても、緩やかな触れ合いならば、拒まれた試しがなかった。そのくらいは許されているのだと、細い金糸に指を通す度に自惚れてしまう。
「ジン」
 僅かに真摯さを滲ませれば、二つの緑瞳は意外にあっさりと振り返った。とっくに飽いていた煙草の葉を盆に落とし、煙管を離した手で滑らかな頬を撫でる。そうすれば心得たとばかりに薄く開かれる唇に、覆い被さるように口付けた。柔らかな肉に甘噛みを繰り返し、もどかしいくらいの緩やかさで舌を絡めて。ゆっくりと上がっていくジンのあえかな息使いが、耳に心地良い。たっぷりと堪能してから漸く唇を離すと、鼻先で不機嫌丸出しの美貌が、眉間に深い皺を寄せてこちらを睨んでいた。
「…昨日から温いぞ、貴様」
「激しいのがお好みなら、残念だったな。俺様、本命は大事にするタイプなの」
「ふん…?」
「あ、その顔は信用してねぇな?」
 身から出た錆と言われればそれまでだが、頭から疑って掛かられるのは面白くない。
「これ以上ないってくらい優しくしてやったんだ、気持ち良かったろ?だったら、それでいいじゃねぇか」
「自意識の過剰も、そこまで行くと病気だな。…僕が、構わないと言っている」
 カグラを射抜いていた視線から険が取れ、ふいと逸らされる。ジンの言葉は本心だろうが、だったら尚更困ったものだった。自然、男の口元に浮かぶ笑みは苦いものになってしまう。
「俺が構うんだよ。…決めた。今日一日、砂吐くくらい甘やかしてやる。覚悟しろよ?ジン」
 お前が本当にそれを望んでる相手じゃなくて悪いけどな、と。後ろ半分の台詞は胸の内に飲み込んで、カグラはジンのこめかみに唇を押し当てる。
 本当は、抱くべき相手ではないと解っていた。幼い頃からずっと、ジンが自分に見知らぬ誰かの影を重ねていたのも知っていた。
 それでも昨夜、空に浮かぶ満月を口実に、褥に潜り込んできたジンを受け入れたのはカグラだ。過程がどうであれ結果だけを見れば、ジンを蹂躙してきたキサラギの者たちと大差は無い。
 ならばせめて、自分の持てる全てで慈しんでやろうと決めた。今まで以上にゆっくりと手間暇を掛けて、溺れる程に愛してやろうと。存外、押しの一手に弱い子供だ。愛情を注ぐ内に、両の翡翠がこちらを見るようになるかもしれない。迷惑そうに顔を顰めるジンの頬をそっと撫で、楽しげにカグラは笑う。
 大切に見守り育て愛でてきた、綺麗な色の小さな金魚。

「先ずは、ベタに餌付けからだな。朝飯、何か食いたいもんあるか?」



蘭鋳



 触れた己の手の温度は、この繊細な生き物の肌を焼かずに済んだだろうか。



某バンドの同名の曲をイメージした筈が、全く違うものが出来ました。もっと淫乱で卑猥な一夜の過ち的な話にしたかったのですが…。たぶん敗因は意外と純愛()だったカグラさんと思う。
夏に和室に襦袢に布団に煙管に…と、好きなものを詰め込んだので楽しかったです(笑)宗家組は和物をめいっぱい使えるからいいですね


2014.07.27. pixivにアップ
2014.08.18. サイト掲載