イカルガ連邦第六階層都市ヤビコは、他の階層都市と比べて四季がはっきりとしている。夏の日差しは刺す様に強く、冬の朝は身震いする程度には寒い。今はその冬の季節の筈だったが、しかしここ数日に渡る帝からの事象干渉の影響で、そこに僅かな狂いが生じているらしかった。
 その証拠に、太陽が昇り始めたばかりの早朝。宛がわれた部屋を抜け出し、ムツキ家当主が指揮を執る統制機構支部の庭を一人歩くラグナも、特別ジャケットを羽織る必要性を感じてはいなかった。まだ二月に入ったばかりだというのに、そこらに生えた多種多様の植物たちの中には、既に開花の準備を始めているものもある。
 そんな命の気配濃い庭の中に先客の姿を見つけ、ラグナは足を止めた。
 蒼炎を纏う凛とした背中は、他の誰よりラグナに近く、そして遠いものだ。こちらの気配に気付いているだろうに、細い後ろ姿は微動だにしない。
 ここの支部で再会してからというもの、顔を合わせる度に喧嘩を吹っ掛けられるか、無視されるかの二択ばかりの相手だ。どうせ今回もそうなのだろう。ならば、さっさとこの場を離れるに限る。無駄な体力は使いたくない。踵を返し、元来た道を戻ろうとした、その時。
「おはよう、兄さん」
 最初は空耳かと思った。いつもは殺意ばかりを囀る甘い声が、至極真っ当な挨拶をしてきたのだから。
 ぎょっとして思わず振り返ると、蒼い背の持ち主が―――ラグナの実弟であるジンが、こちらを見ていた。ことりと首を傾げた拍子に、サイドを長めに伸ばした金髪が揺れる。
「珍しいね。兄さんが、食事の時間より早く起きるなんて」
「テメェこそ…何してんだよ、こんな朝っぱらから」
 何とか動揺を腹の底に隠し疑問を口にすると、ジンは小さく肩を竦めた。
「修行だよ。猫に言われてる。お前の秩序はまだ幼いから、日々の鍛練を怠るなって」
 世界の秩序、バランサー、黒き獣への抗体。弟の細い肩に圧し掛かった宿命は大きく、そして重い。それらに振り回されぬよう、かつてラグナの師でもあった猫又は、自らジンへの指導を買って出た。ひねた弟の事なので、素直に師の―――獣兵衛の教えを受けているのか疑問だったが、どうやらそれも杞憂だったようだ。
「ふぅん…、真面目なこった」
「何処かの誰かは、いつも文句ばっかりだったって聞いたよ。瞑想なんか、特に嫌っていたって。そのお陰かな、少し言う事を聞いただけで随分と煽てられた。お前は素直ないい子だな…だってさ」
「おい…」
「あれ、兄さん…顔が怖いよ?どうしたの?」
 きゅ、と口角を上げたジンの顔は、明らかにラグナの反応を楽しんでいる。口の軽い師も師だが、弟にからかわれるのは兄の矜持が傷付くというものだ。
「…後でぜってー泣かす」
「楽しみにしてるよ」
 これで話は終わったとばかりに、ジンがラグナの横を通り過ぎる。すっかり身支度を整えている弟は、既に見慣れた統制機構の隊服姿だ。ひらりと棚引く蒼炎を、知らずラグナの視線が追う。気付けばまるで引き留めるように、弟の腕を掴んでいた。
「やれば普通に話せるんじゃねぇか、テメェ」
「そうだよ。態と…そうしていないだけ」
 どうして、などと聞くだけ野暮だ。返す言葉も見当たらず、兄は手持無沙汰にもう片方の手で首の後ろを撫でつける。
「―――もう、戻んのか?」
「…うん」
「なら、ちょっと付き合えよ。飯までまだ時間あんだろ?」
「―――っ、僕は…」
 馴れ合うつもりはないと豪語していた弟だったが、ここまで会話をしておいて今更それもないだろう。戸惑いを整った面に貼り付けたまま立ち尽くす弟の手を取り直し、兄はさっさと歩き出す。そうすれば大人しく付いてくる辺り、成程、獣兵衛が甲斐甲斐しく世話を焼く程度の可愛いげはあるのかもしれない。
「…何処に行くのさ」
「散歩だよ。他人の気配がたくさんあると、どうも落ち着かねぇ」
 これは、本当の事だった。
 幼い頃は小さな教会で弟妹とシスター四人の生活だったし、あの忌々しい事件の後も、いつも傍にいたのは獣人の師と少女のような吸血鬼だけ。
 マコトやカグラたちが好ましい人物だとはわかっていても、常に沢山の気配がある今の環境はラグナにとっては落ち着かないものだった。
 薄々とではあるが、セリカから離れても自分の左腕が爆発などしない事をラグナは察し始めていたので、久しぶりに一人の時間を取ろうと早朝から部屋を抜け出してきたのだったが―――
(こいつが一緒じゃ、意味ねぇじゃねーか…)
 これでは、当初の目的とは違ってしまう。それでもラグナの手は弟の細い指をしかと掴み、離そうなどとは欠片も思っていないようだった。
 ゆるりと、背後の気配が緩むのを感じる。
「…僕も。人が多い場所は、好きじゃない」
 同じだね、兄さん。嬉しそうに弾む声と共に、繋いだ指先が握り返される。
「でもね、兄さんの気配は落ち着くんだ。何でかなぁ?」
 諦めたのか、はたまた開き直ったのか。今までの突っ慳貪な態度は何処へやら、ジンは存分に甘えを含んだ声で、ラグナに話しかけてくる。弟の変わり身の早さには呆れを通り越して閉口するしかないが、それでも頭ごなしの拒絶を受けるよりはよっぽどマシだった。弟の手を引いたまま、ラグナは未だ最奥の見えない苑地を歩く。
 散歩と言ったが、特に当てがある訳でもなかった。拓かれた場所を適当に選んで進んでいると、不意に体がつんのめる。原因など、一つしかない。肩越しに後ろを振り返ると、ラグナに付いてくるばかりだったジンが立ち止まり、明後日の方に視線を向けていた。
「どうかしたか?」
「…今年は、随分と早く咲いたんだな」
「あ?」
「ほら、あそこ…」
 弟の指差した先には、葉も生え揃わぬ枝にぽつぽつと薄紅色の花を咲かせた花木があった。庭に生えている殆どが未だ茶色い蕾ばかりの木々たちの中にあって、一本だけ色を持つそれはやけに目を惹く。
「桜…じゃねぇよな。何だ?」
 最初は桜花かと思ったが、よく見ると花弁の大きさからして違う。元より、草花など食用かそうでないかで分類しているラグナだ。こんな眺めて楽しむような風情のある木々の区別などつく訳がない。
「桃だよ。桃の花」
 するりと兄の手から離れると、ジンは木の下に歩を進め目線の高さで揺れる枝に手を伸ばす。指先でそっと花弁を撫でる仕草は優雅で、顔を合わせる度に「殺し合おうよ」と刀を振り回しながら迫ってくる常からは想像もつかない。
 「そうだ」と徐に振り返った面は穏やかで、花と共にあるジンの姿はラグナに幼かった昔を思い起こさせた。
「知ってる?兄さんの誕生日って、桃の節句と同じなんだよ。こんな大きな段の上に沢山人形を飾ってね、女子の健やかな成長を願う日なんだ」
 くすくすと、邪気のない顔で弟が笑う。稚気を含んだ高い声音は、不本意だが耳に心地好い。
「兄さん、随分可愛い日に生まれたんだね」
「…うっせ」
 街が菓子の甘い匂いに包まれる日に生まれた、こいつにだけは言われたくなかった。盛大に顔を顰めると、ジンは口元に笑みを刷いたまま花の方へと視線を戻す。暫し試案するように小さく首を傾げた後、枝に滑らせた指先に力を込めると、弟はそれを根元からポキリと手折ってしまった。ほっそりとした弟の手に少女めいた色の花は良く似合うが、如何せんここは他人の敷地内だ。
「おい、勝手に折って平気かよ?」
「平気だよ。ヒビキ大尉ならともかく、花の枝一本折ったところでカグラが気付く筈もない」
 ジンの手のひらに収まってしまう程度の、小ぶりな枝だ。それを指先でくるくると弄びながら、ジンはラグナの元に戻ってくる。
「桃の木にはね、邪気を退ける力があるとも言われてるんだ」
「ふん…?」
「もしそれが本当なら、この花が兄さんを守ってくれるかな…?」
 僕は、貴方を傷付ける事しか出来ないから。
 ラグナの左手を取り上げると、ジンはそこに手折ったばかりの桃花綻ぶ枝を握らせた。そうして自分の両手も重ね、兄の手のひらごと、きゅうと包み込む。
「―――ねぇ、兄さん。死なないでね」
 その仕草は、言葉は祈りに似ていた。頭を垂れた弟の表情は窺えず、ラグナはただ細く揺れるジンの声を聞き、綺麗な渦を巻く旋毛を眺めていた。
 あと数時間もすれば、ラグナはノエルとセリカと共に、レイチェルに指定された窯へと赴く事になっている。
 弟は、世界の秩序は、そこに待つものを知っているのだろうか。それともただ、漠然とした予感を感じ取っているだけなのか。触れ合う手のひらは見えない何かに怯えるように、僅かな強張りを見せている。
「生きて、ちゃんと僕の所に戻ってきて。そうして…僕に殺されてよ」
「―――ホントに、そればっかだな…テメェは」
 はぁ、とこれ見よがしに溜息を吐くと、細い肩がびくりと震えた。別に、怒った訳ではない。ただ少し―――否、盛大に呆れただけだ。そしてどうしようもなく、歯痒いだけだ。
「兄ちゃんは、お前の方がよっぽど心配だよ。俺と…あのツバキとかいう女の事になると、テメェは見境がなさすぎる」
 兄と対峙する時も、幼馴染の少女を救った際も。この弟は自身を顧みる事をせず、いとも簡単にその身を投げ出してしまう。ジンがラグナを、ツバキを思うように、自分もまた誰かに思われている事に気付きもしない。
 ―――自分が今抱えている不安を、兄もまた抱いているとは思いもしないのだ。
「そんなに俺を殺してぇんなら、先ずは自分が生き延びろ」
 左手には、ジンが無造作に手折った桃の枝。息吹く花はそのままに、ラグナは余計な枝や葉だけをパキリ、パキリと取り除く。
 そうしてまるで簪のように、淡い紅色をジンの髪に飾ってやった。
 この小さな花に本当に護りの力があるのなら、その加護は自分にではなく、何かと危なっかしい弟の方にこそあればいいと思っての行為だった。 
「似合うじゃねぇか」
 まるで女にするような扱いだ。揶揄するように口にすれば、しかしジンは桃の花弁と同じ色に白い頬をほのりと染める。
 てっきり噛みついてくるとばかり思っていたラグナは、予想だにしなかった弟の反応に虚を突かれた。
 離すタイミングを失った手が、ジンの髪に触れたまま動きを止める。弟の性格上ろくに手入れなどしてないだろう金糸は、子供の頃胸に抱えた小さな頭と同じ、柔らかい手触りをしていた。そのくせ戸惑うように伏せられた長い睫毛も、色を含んだ目尻もラグナの知らないものなのだから、始末が悪い。
 無意識なのだろう、ジンが僅かに首を傾け、ラグナの手のひらに頬を寄せる。「兄さん」、綻んだ唇が、音も無くラグナを呼んだ。
 今までの互いを思えば、破格とも言える穏やかな触れ合い。そしてそれはラグナの胸の奥にきつく抓られたような痛みと、そうっと柔く撫でられたような愛しさをもたらす。

 そう、愛しさだ。

 辿り着いた己の思考に、ラグナはぎくりとした。
 この感情は良くないものだ。そう、ラグナの本能が警鐘を鳴らしている。
 同性だとか、肉親だとかの問題以前に、殺し殺される運命の自分たち兄弟にとって、この感情はあまりにも不要なものだ。けれど意図せず芽吹いた想いはあっという間に膨れ綻び、清濁を併せ持ちながら湧く泉のようにふつふつと溢れて止まない。
 これが綺麗なだけの想いならば家族愛とも誤魔化せたが、愛しさの影に見え隠れする独占欲の存在が、更にラグナを困惑させた。
 ―――この感情は、良くないものだ。
 既に賢明な弟は、突いてやれば簡単に顔を出す兄への慕情に蓋をして、己が使命を全うする為目を閉じ耳を塞いでいる。その蓋をラグナが自らずらしてしまったのだから、再び元に戻す事こそすれ、中身を引き摺り出し白日の元に晒していい筈がない。
 大体からして、残り僅かと知れている己の命だ。いずれ置いて逝くとわかっていて、態々弟に未練を残すような真似はしたくなかった。
 しかしそうと思いながらも、ラグナの指先はそれこそ未練たらしく低い体温を求め、視線は薄らと微笑んでいるジンの美貌に捕らえられたままでいる。
 目の前のこれが、欲しくて堪らない。髪の一筋から爪の先まで、己だけのものにしてしまいたい。一方的で利己的な欲に戸惑う傍から、元よりこれは自分のものだった筈だと思い直す。これは一度理不尽に奪われたものの、それこそ文字通り地面を這いずり回りながら足掻いて、足掻いた末に取り戻したものだ。
 ならば自分のものを自分の思うように扱ったところで、何が悪いというのか。
「ジン」
 暴力的な思考とは裏腹に、ラグナは右手も伸ばすと、弟の顔を両手でそっと包む。そうすると目ばかり大きい小作りな顔は、簡単に手の内に収まった。そのままくい、と上向かせると、抵抗も無く視線が交わる。
「にいさん…?」
 ラグナの左目と同じ、二つの緑瞳が瞬く。今や唯一となってしまった、互いの血の繋がりを示す証。
 この感情は、良くないものだ。
 何度目か思う。けれどその良くない感情を押し通したところで、ラグナを咎めるものなどこの場には誰もいない。
 ―――ジン以外に、居はしない。
 ならば、最早全てがどうでもよかった。そもそも弟などは、黙って兄の言うことをきくものだ。
 惹かれるように顔を寄せ、薄く開かれた薄紅の唇に口付ける。初めて触れたそこは思いの外柔く、甘い。ぴたりと塞いだ唇の奥で弟が息を呑む気配がしたが、気付かないふりをした。突然の兄の暴挙にすっかり固まってしまったジンは、茫然と立ち尽くしラグナのするがままにされている。
 それでも深入りするだけの意気地がないのは、笑うしかなかった。気の済むまで柔らかい肉を食んでから、最後に小さく音を立てて唇を離す。何時の間にか降りていた瞼を上げれば、両の目を零れそうな程に見開いた弟の顔があった。ああ、驚いてやがる。今まで散々人の度肝を抜いてきたのだから、この程度の仕返しならば安いものだろう。くつりと喉を震わせて、ラグナは笑う。半ば、自棄糞気味になっているのかもしれなかった。再び頭を擡げてきた衝動のまま、もう一度とジンに顔を近付け、そして―――
 
 バッチン。

 振りかぶった弟の平手が、見事兄の左頬に炸裂した。
 いくら細身とはいえ、こう見えてもジンは紛れも無い元軍人。手加減無しで叩かれれば、いくら頑丈なラグナとて普通に痛い。
「―――ってぇな!テメェ何しやが…っ、」
 自身に非がある事は明白だったが、突然の暴力を容認する程ラグナは人間が出来ていなかった。声を荒げジンに詰め寄ろうとしたラグナだったが、直ぐにその動きを止めてしまう。
 目の前の弟は、兄の頬を張った体勢のまま赤く色付いた唇を噛み締め、わなわなと震えていた。
「に…さ、の…」
 みるみるうちに水を湛えはじめた翠の目から、大粒の涙がぼろりと落ちる。

「兄さんの…節操なしっ!」

「はぁっ !? 」
 突飛な罵倒を投げ付けて、ジンが身を翻す。弟の肩から垂れる飾り布がふわりと広がって、ラグナの視界を蒼く遮った。
「おいっ、てめ…ジンっ!誰が節操なしだコラァ!」
 兄の叫びは虚しく庭に響き渡り、ざわざわと木の枝を揺らすばかりだ。弟の姿は、とっくの昔に小さくなって見えなくなっていた。
「…あんのクソガキが」
 泣かせたい訳ではなかったのだがバツの悪い事に変わりは無く、一人この場に残されたラグナは、がしがしと己の白髪を掻き混ぜる。
 ―――言うに事欠いて節操なし、だ。弟の目に映る自分は、そんなに誰かれ構わず手を出しているように見えているのだろうか。
 巫山戯るなと舌を打ち視線を下げると、青い芝生の上に落ちた桃の花を見つけた。ジンが走り去った際に、髪から落ちてしまったのだろう。拾い上げた花たちは纏う対象を失い、しょんぼりと萎れているように見えた。その姿が先程の弟の姿に重なり、ラグナは眉根を寄せる。引っ叩かれた時点で、頭は多少の冷静さを取り戻していた。
 一時の感情に任せて行動すると、碌な事にならない。
 それこそ昔から、獣兵衛やレイチェルから山程受けている小言の一つだ。今程それが身に染みる事も無い。後悔先に立たずとは、良く言ったものだった。
 触れなければよかったと、今更思ったところでもう遅い。今のジンの熱を、感触を、ラグナの肌は覚えてしまった。優しく綺麗で、同じくらいに鋭い痛みを呼び起こす過去を、現在で上書きしてしまったのだ。
 過去は、先へ進まない。けれど現在(いま)は、ありもしない未来への繋がりを期待させてしまう。
 ―――生きて、どうにか生き延びて。弟と共にありたいと、願ってしまう。
 こうなってしまえば、未練を残すのはラグナの方だ。
 嗚呼、嘆息を零した唇の端が、自嘲の形に歪む。柄にも無く、泣き出してしまいたかった。

「―――死にたくねぇな…」

 この花に願えば、叶うのだろうか。
 だってまだ、あいつを抱きしめてもいない。



兄さん誕生日おめでとう!全然祝ってる内容じゃなくてゴメンね!←
書きたい事詰めたら、節操のない話になりました。後で修正するかも知れません…。


2014.03.03. pixiv、サイト掲載

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