ぴちゃり、耳元で上がった水音に、ラグナは閉じていた目を開けた。 まず視界に飛び込んできたのは、日向を思わせる金の色。次に顔に当る、濡れた髪の感触。仰向けに寝ている自分に覆い被さってくる重みと、暖かい体温。耳を掠める吐息。 それらが誰のものかなんて、分かり切っている。 「こら、ジン…」 まるで子猫のように無心で自分の耳を舐めていた弟―――ジンの首根っこを掴み、引き剥がす。雑な扱いではあったが、こちらと目が合うと弟は、見た目だけは無邪気な笑顔をみせた。 どうやら湯でも浴びてきたらしい。ジンは碌に髪も乾かさぬまま、常より僅かに温(ぬく)い体に安物のバスローブを纏っただけの格好で、兄の剥き出しの腹の上に跨っていた。申し訳程度に重なっている袷の間からは、日差しとは縁遠い白い肌と、ラグナが刻んだばかりの濃い情交の痕が覗いている。 「兄さん…起きた?」 野宿続きの生活に疲れ、なけなしの金を叩いて取った街外れの下宿だ。だが一夜の安眠を求めて取った部屋も、何処で嗅ぎ付けたのかこの愚弟が転がり込んで来たせいで、本来の目的を果たす事無く終わりそうだった。 間違いなく宿泊施設の底辺に属しているだろう部屋の内装は質素を通り越し粗末と言って良く、弟が少し身動くだけで狭いベッドがギシリと鳴く。 「…起きてねぇ」 「嘘吐き。兄さんも、早くシャワー浴びてきなよ」 「んー…」 曖昧な返事を返すラグナに、ジンが呆れたような息を吐いた。お前が乗っかっているから立てないのだと言おうにも、睡魔がそれこそ目の前の弟のようにべったりとラグナの意識に張り付いている所為で、それすら億劫だ。 「にーさん…」 再びうとうとと船を漕ぎだしたラグナの耳に、再度ジンの柔らかい唇が押し付けられる。縁をやんわりと食まれ、舌先でその輪郭をなぞられれば流石に擽ったい。 「んだよ、さっきから猫みてぇに…」 「ピアス」 「…あ?」 「兄さん、ピアスなんてしてたんだね。…今まで気付かなかった」 弟の言葉に、兄は暫し思考し、やがてああと思い至る。ラグナの左耳、耳朶と言うにはその少し上。綺麗に丸く磨かれた翠の石が一つ、無造作に跳ねた髪の間に隠れるようにして嵌っていた。 どうやら先程からジンが舐めていたのは耳ではなく、このピアスだったらしい。 「これ、翡翠でしょう?…高かったんじゃないの?」 「さぁな。…忘れた」 「…あの魔女にでも、買ってもらった?」 「馬鹿か、テメェ。真っ当に労働して、その対価で買ったに決まってんだろ…」 「…僕が付ける以外の傷なんか、体に残しちゃ駄目。取ってよ」 「ヤだっての。また穴開けんの、面倒くせぇ…」 「だから、それが駄目なんだってば」 既に両腕が借り物、作り物の自分に対して、この弟は一体何を言っているのか。 頑是ない子供のように頬を膨らませている姿は、とても元図書館の師団長、イカルガの英雄サマとは思えない。そうでなくても、見目だけは良いと評判の顔が台無しだ。 「うっせぇなぁ…。―――同じなんだし、いいだろ?」 「…何と?」 みるみるうちに機嫌を下降させているジンが、じとりとラグナを睨めつける。 相変わらず三秒もあれば眠れる程にラグナを襲う睡魔は健在だが、ジンを宥めない事には平穏な眠りも訪れまい。欠伸を一つ噛み殺して、ラグナは渋々だが弟との会話に付き合ってやる事にした。 「お前と…サヤ。あと俺の失くした右目と…同じ色だ」 だから買ったのだと。覚醒しきらないぼんやりと滲む双眸で、兄は自分の腹の上に陣取る弟を見上げる。 ナイトランプの灯りを受け、柔らかく光る髪の金と、軽く見張られた瞳の翠。惹かれるように手を伸ばし、触れる。 妹のサヤも、かつてはラグナ自身も持っていた色。 ―――ラグナにとって大切な、愛おしい宝物の色だ。 「奪われたもの…変わっちまったもの…。これで少しは…埋められた気がした。ただでさえ似てねぇのに…揃いの色まで失くしちまったら、お前たちとの繋がりまで…消えそうで」 髪を、頬を、緩慢に撫でる武骨な指先を甘受しながら、ジンは黙ってラグナの独白を聞いている。 ―――否、ただ黙っているしか出来なかった。 兄の弱音なんて、生まれてこの方、聞いた事など無かったから。 すっかり大人しくなってしまったジンの反応をどう捉えたのか、ラグナが自嘲の形に唇を歪める。 「…女々しいだろ?笑えよ」 存外に寝汚い兄だ。これだけ喋っても未だ半分しか開いていない瞼を見るに、間違いなく寝惚けているのだろう。朝を迎える頃には、この会話を交わした事すら覚えていないかもしれない。 無意識につけ込む様な真似には罪悪感が沸いたが、常ならば決して聞く事の出来ない兄の本音を知れた事は嬉しかった。 「馬鹿だね…兄さんは」 ゆるりと口の端を緩めて、兄の左耳を飾る翡翠に触れる。こんなものなど付けずとも、どれだけ見た目が変わろうと、自分が―――そしてサヤが、兄の存在を見失う筈も無いのに。 「兄ちゃんに向かって馬鹿とは何だ」と、口の悪い自分を棚に上げ、ラグナの指がジンの頬を摘む。そのまま戯れのように軽く抓ってくるものだから、「痛い」と声を上げて笑ってみせた。 「けど…そうだな。お前も、サヤも…全部取り返したら、外しちまってもいいかもな…」 慈しむようなラグナの視線と手つきに、ジンは鼻の奥がツンと痛むのを感じる。 「…変なにいさん」 微かに震えた語尾に、兄は気付いただろうか。 ―――全てを取り返したらと、ラグナは言った。 ならば兄が取り戻したいのは昔のままの小さな弟であって、歪みきり元の形もわからなくなった今のジンではないのだろう。 「僕なら…ここにいるよ…?」 そう思うと、胸が押し潰されるようだった。頬を撫でる兄の手に、すがるように己の手のひらを重ねる。 過去の事を思えば、今更愛されたいだなんて望めない。だから嫌うでも憎むでも構わないから、せめて兄の眼に映るのは今の自分自身であってほしかった。 俯くようにラグナの手のひらに顔を埋めてしまったジンの髪を、捕らえた兄の指先がそっと撫でる。 「…まだだ。まだお前を…"世界"の野郎から、取り戻せてない…」 耳を打つ声に顔を上げた先には、顰めっ面をした兄がいた。金糸に絡む指は優しいままだから、ジンに怒りを抱いている訳ではないのだろう。言葉の先を促す様に小さく首を傾ければ、ラグナの眉間に寄った皺がますます深まる。 「秩序だか抗体だか知らねぇが、人の弟をテメェのもんみたいに使いやがって。…ムカつく」 「にい、さ…?う、わ…っ」 ぽかんと兄の顔を見返していたら、もう片方の腕も伸びてきて両の頬を挟まれた。そのままグイグイと捏ね回されて、思わず上擦った声が出る。寝惚けているせいか力の加減が上手くなく、かなり痛い。 「ちょっと…痛…っ、兄さん痛いよ…」 「世界になんかやるかよ。お前は…俺の、弟だ…」 「―――うん」 「返事は 『はい』 だろ。ばあさんに怒られんぞ…?」 「はい…兄さん」 言葉を噛みしめるように頷くと、眠たげな目をした兄が満足そうに微笑んだ。 「心配すんな。兄ちゃんが…何とかしてやるからな」 途端に沸き起こった衝動のまま、弟は上体を倒し兄に顔を寄せ、互いの唇を重ねる。かさついた唇を舐めると、兄が喉の奥でくつりと笑う気配がした。行為を促す様に、頬から後頭部へと回される大きな手。ラグナのそれを真似、ジンもまた兄の硬い髪に指先を滑らせる。 その拍子、綺麗に整えられた爪が翠石を掠め、カツリと小さな音を立てた。 jade (じゃあさ、これ外した時は…僕にちょうだい?兄さんの右目、欲しい) (―――却下) (けち) (…テメェの体に余計な傷なんか増やす事ねぇだろ、馬鹿) (…うん、わかった) CP基準の兄弟で、兄さんのピアスに纏わるピロートークでした。 兄さんのピアスが緑の石だとは思わなくて、それに気付いた時は萌えで呼吸困難になりそうでした(笑) 三兄妹の目の色じゃないか…萌える、兄さんくっそ萌える…(うわ言) 2013.10.09 pixivにアップ 2013.10.14 加筆修正 →TOP |