歌が聴こえる。
 しっくりと耳に馴染む声とメロディは、彼が二度と聴くことはないと思っていたものだった。澄んだ声音は凛として、けれどふわりと柔らかい。
 なだらかな音の並びに誘われ、ラグナ=ザ=ブラッドエッジはゆっくりと閉じていた瞼を持ち上げる。青々と茂る木々の葉の隙間から降り注ぐ木漏れ日が眩しい。陽の光に慣らすように、一度、二度。緩慢に瞬くオッドアイは、未だひどく眠たげだ。
 背の低い芝生の上に寝転んだまま、ラグナは一つ欠伸をすると、歌声の聴こえる方へと視線を向ける。

 果たして、そこには天使がいた。

 真白い羽根に、真白い服。遠い昔、本の中に見た神の使いの特徴こそないものの、それは正しくラグナにとっての天使の片割れだった。
 斜め下から見上げている所為でその表情は知れないが、おそらく穏やかな顔をしているのだろう。声の調子で判る。狂喜に上擦っても、頭ごなしの拒絶に硬くなってもいない声音はまろく、心地良い。
 寝起きの思考は霞が掛かり、覚醒には程遠く。すんなりと流れる金髪の間から覗く耳の縁を、ぼんやりと眺めること暫し。聴こえていた旋律が、ふいにふつりと途切れた。ラグナの気配に聡い"これ"の事だ、早々に見られていると気付いたのだろう。一対の緑瞳が振り返り、ラグナの紅翠と交差する。
 さて、その秀麗な面はしかめられるのか、はたまた甘い狂気に歪むのか。どちらに転んでも、ラグナにとって良いことは何もない筈だ。なのに―――

「兄さん、起きたの…?」

 ああ、これは夢だ。そうでなければ、説明がつかない。
 柔らかい日の光を一身に浴びて、新緑の瞳を愛おしげに細めて。日だまりそのものの色をした天使が―――ラグナの弟が、腕を伸ばせば届く距離で微笑んでいた。
「ジン…?」
「うん、なぁに?」
 兄の傍ら、両足を投げ出して芝の上に座り込んでいる弟―――ジンは、そうしているとまるで無邪気な子供のようだ。
 手袋に包まれて尚ひんやりとした指先が伸びてきて、ラグナの額を掠めるように撫でる。冷たい。ふと胸中を過った衝動のまま、ラグナは頭の後ろに敷いていた左手を上げ、ほっそりとした見た目のそれを捕まえた。例え夢でも、弟の姿が無かったもののように消えてしまうのは耐えられない。
 しかしラグナの不安は杞憂に終わり、女のそれに近いジンの華奢な手首は、大人しく兄の手中に収まったままだ。となると、この異常事態はれっきとした現実であるらしい。
 そもそもここは、第五階層都市イブキドの跡地。人っ子一人通らない閉鎖地区の一角だ。相も変わらず史上最高額の賞金首をやっているラグナはともかく、何故ジンがここにいるのかと疑問に思い、そういえばこいつも今は統制機構に追われる身だったと思い出す。何より、兄のいる所ならば神出鬼没な弟の事だ。昼寝の間に何処からともなく姿を現していたところで、今更驚くような事も無いだろう。
「―――不覚だ」
「え…?」
 ともあれ、目の前の弟が幻でないのは良いが、そうなると次にやってきたのは子供みたいな真似をした事による羞恥だった。しかし素直に赤面する可愛いげがラグナにある筈もなく、照れ隠しの表現は自然、仏頂面になる。
「これじゃあ、テメェに寝首掻かれても文句言えねぇ…」
 憮然と。渋面を作る兄に、弟はますます小綺麗な笑みを深め、ことりと首を傾げた。その動きに合わせて流れる金糸が、陽を浴びてキラキラ光る。
「うん。それもいいかなぁって、思ったんだけどね?」
 ―――いいと思ったのか。
 眉間の皺を順調に増やしていくラグナに、ジンはクスクスと少女めいた声音で笑うばかりだ。
「でも、兄さんがあんまり気持ち良さそうに寝てるから、殺意もどっか行っちゃった」
「…そりゃあ良かった」
 他意の無い弟の笑顔に絆された訳ではないが、口では何と言おうと未だ凪いだ空気を纏ったままのジンに、ラグナも漸く肩の力を抜いた。普段の躁鬱染みた言動が鳴りを潜めてさえいれば、弟が傍にいること自体、兄としては吝かではない。
 穏やかな天気の昼下がり、木陰の下は適度に涼しく快適で、追い掛けてくる咎追いもいない。まどろむに最適な環境は、一度は去ってしまった眠気でもあっという間に連れ帰ってきてしまう。
「…さっきの、ばあさんの子守唄だろ?」
 離すタイミングを見失い、繋がれたままの互いの手。ずっと持ち上げ続けていては疲れてしまうから、一旦芝の上に置く事にした。
 温かな大地の感触と、青々とした草の匂い。それだけでも教会に居た幼い頃を思い出すのに、加えてジンが歌った子守唄だ。深いところに仕舞い込んだ筈の優しい記憶ばかりが掘り起こされて、ラグナの口元も自然と緩む。
「そう…だったっけ」
「今日みたいな天気のいい日によ、お前たちが昼寝してる傍でよく歌ってた。テメェはぐーすか寝てたから、覚えてねぇだろうけど」
 曖昧に濁ったジンの言葉尻は、ラグナの意識に引っ掛からなかった。弟が覚えていないのも道理だろうと思ったからだ。養母の歌う子守唄の威力は抜群で、ジンも妹のサヤも、その歌を聴けば直ぐに眠ってしまっていたから。
 弟の戸惑いは一瞬で、元来鈍い兄がそれに気付く筈も無い。
「お前も、歌が上手かったな。サヤもだ。俺だけ下手くそだったから、歌の時間は嫌いだった」
 一度過去に思いを馳せれば、そこに連なる記憶が芋蔓式に顔を出す。
 握ったままの薄い手の甲を親指の腹でそっと撫で、ラグナは喉の奥でくつりと笑った。
「俺は聴く専門で良かったのによ。お前らの歌う讃美歌聴いてるとなぁ…あー成る程、俺の弟妹(きょうだい)は天使だったのかと、兄ちゃんはずっと…」
「…兄さん、寝惚けてるでしょ?」
 新緑の目を眇めて、ジンが可哀想なものを見るような視線をラグナに寄越す。兄にだけ向けられる甘い声音も、この時ばかりは呆れ気味だ。
 けれど、本当にそう思っていたのだから仕方ない。シスターの奏でるオルガンの音に合わせ、愛らしい声で囀ずる弟妹たちは、兄にとっては正しく宗教画に描かれた小さな天使そのものだった。
 だのにこの弟は、一体何が不満だというのか。
「じゃあ鳥だ。黄色くて、鳴くのが上手い、ちっさな鳥。何つったっけな…?」
「…カナリア?」
「そう、それ」
「うん…天使よりは、少しマシかな?」
 また、ことり。金色の頭を傾ける仕種は、小さな鳥に似ている。渋々出した妥協案にしては、納得のいく例えだ。
 自然に馴染む色をした野生のそれとは違う、綺麗な黄金色の飼養種。

 狭く閉じられた籠の中に似た小さな教会で、ずっと共に生きていくのだと信じていた。

「…けど、やっぱ駄目だな。どっちも駄目だ。どっちも羽が生えてるから、勝手に飛んでっちまう」
 繋いだ手のひらから腕を辿り、ジンの薄い背中へと指を滑らせる。厚い隊服の上からでもはっきりとわかる、骨の凹凸。羽の名残とも言われる肩甲骨を一つ撫で、ラグナは自嘲するように唇の端を歪めた。
 カナリアだろうと、天使だろうと変わらない。ラグナのたった一人の弟は、この背に生えた見えない翼をはためかせ、既に兄の手中から巣立ってしまっている。それでも今は煩いくらいに兄さん、兄さんとラグナの周りを飛び回っているが、これからもそうとは限らない。既にジンは外界の広さも、肉親以外の者がくれる人の温かさも知っているのだから。
「―――違うよ。兄さんがちゃんと捕まえていないから、逃げていってしまうだけ」
 背に触れる兄の腕をそっと外して、弟は小さく頭を振った。
「本当に逃がしたくないのなら、羽をもいで、籠に入れて…。それでも心配なら、鎖で繋いでおけばいい」
 邪気のない微笑みから一変、唇こそ緩く弧を描いたままのジンの美貌に、ほの暗い陰が落ちる。
「そうすれば、もう何処にも行けないね。ずっと、ずぅっと…兄さんの為だけに、歌っていてあげられる」
 白い頬を淡く染め、翡翠の瞳を蕩けさせ。それがまるで至上の幸福かのように、ジンは言う。
 翼代わりの脚を潰して、それでも足りぬと鎖で繋いで。何処へも行けぬよう鳥籠に似た部屋の中へ閉じ込めたとしても。それが兄の強いたことならば、この弟は今と同じに、綺麗な笑みを浮かべたままでいるのだろう。この腕の中、ラグナの為だけの歌を甘い声で囀りながら。
 破壊者としての運命も、秩序としての宿命も全て投げ棄てて。共に緩やかな滅日を迎えられるなら、それの何と幸せなことか。
「…ばーか」
 けれどそんなものは、所詮一時の休息が見せた叶わぬ妄想に過ぎない。それを鼻先で笑い飛ばすと、ラグナは怠惰に寝転んだまま、のそりと体勢を変えた。
 近くにあったジンの膝に頭を乗せ、飛んでいってしまわぬよう、ほっそりとした脚に腕を絡める。暫く身動ぎを繰り返し収まりの良い場所を探したが、しかしそれは徒労に終わった。
「…見た目より硬ぇ」
 何故だか詐欺にあったような気持ちで思わず文句を溢せば、弟は当然とばかりに小さく唇を尖らせる。
「当たり前じゃない。男の脚に、何期待してるのさ」
「昔は何処もかしこも柔らかかったくせに…」
「文句言うなら降りてよ。重い」
 そうは言っても、無理に兄の頭を芝生に落とすような事はしないのだ、この弟は。戯れに髪を引くくらいが関の山で、だからラグナもつい調子に乗ってしまう。
「…うた」
「うん?」
「歌だよ。お前の歌、もっかい聴かせろ」
 精々年長者らしく、命じる声音で。
 しかし素直な返事の代わりに返るのは、稚気を含んだ笑い声だ。
「今日の兄さんは、我が儘だね?」
「うるせぇ。兄ちゃんの言うことは、黙って聞けよ」
「横暴だなぁ…」
 口先だけの不平など、愛おしさが増すだけだというのに。
 ゆったりと髪を撫ぜる指の感覚に誘われ、ラグナは両の瞼を下ろす。程なく聴こえてきた歌声は、年老いた養母の慈愛に満ちたそれでも、幼い弟妹たちの愛らしいソプラノでも無いけれど。

「…おやすみ、兄さん」
 
 美しく育ったカナリアが囀ずる、甘いテノールだって悪くない。
 


尻切れ感半端ないですが、ここらが限界でした。しかしうちの兄弟はよく寝てるな!(笑)
同人的に歌ネタは何番煎じってレベルではないし、小説でノエルが既に歌ネタやってますが、ならばカナリアで行こう、と。
ジンサヤは歌が上手いと兄さんが幸せでいいと思います。…カッキーの歌唱力?知らんなぁ…←


2014.07.06. pixivにアップ
2014.07.29. サイト掲載