夕暮れが、崩れた瓦屋根を赤く照らす。 人の気配どころか、生き物の気配一つない荒廃した城下町を、ラグナ=ザ=ブラッドエッジは一人歩いていた。 つい数日前には隣にいた筈の同行者の姿は、今は無い。 カグツチから旅立つ際、師より預かったカカ族の少女とは、早々にはぐれてしまっていた。 だからといって、探してやる気にもなれない。元より半ば押し付けられたようなものだ。それに決して多くはない、ラグナの財布の中身の為にも、彼女―――タオカカとは、別行動を取るのが最善だ。胃袋だけに関して言えば、彼女は猫というより牛に近い。 けれど一方で、タオカカの存在が役に立っていた事も事実だった。 彼女の不在が、ラグナを今この廃墟に立たせていると言っても過言ではない。 というのも、タオカカがいなくなってからこっち、ラグナが咎追いに目をつけられる事が劇的に増えたのだ。 ―――まぁ、誰も街中で少女と肉まんを取り合ってる男が、死神の通り名を持つ史上最高額の賞金首だとは思うまい。 今日も今日とて丸々半日、咎追いたちとのデットヒートの末に漸く彼らから逃げおおせた頃には、日もだいぶ傾いていた。この分だと、今夜も野宿になるだろう。 「ったく、ついてねぇな…」 銀色の髪を一つ掻いて、ラグナは目の前に聳える建物を見上げる。 連合階層都市「イカルガ」を形成している都市の一つ、第八階層都市「ワダツミ」。その都市の名を冠する、今は主を失ってしまった廃城だった。 そしてここは弟が―――否、統制機構の"ジン=キサラギ"が、"英雄"と呼ばれる切っ掛けとなった場所だ。弟に付けられた大層な二つ名を思い出し、ラグナは僅か顔を顰める。 泣き虫で繊細で、いつも自分の後ろをついて回っていた、小さなジン。その弟が先の内戦で領主を討ち取るという功績を収め、最年少師団長の座に就いたのだという。 全くもって、悪い冗談としか思えなかった。 人の弟を勝手に戦争に駆り出していた事も腹立たしければ、"イカルガの英雄"と祀り上げていたのも、機構の傀儡として扱っていたようで腹立たしい。 やはり、図書館は潰すに限る。全てに決着が着いたら、真っ先に壊滅させよう。そうしよう。 「にーいさん!」 「……。さて、どっか寝れそうな場所探さねーと…」 弟の事を考えていたからか、何やら幻聴まで聞えてきた。疲れているのだろうか? 何故か痛みだしたこめかみを揉んで、ラグナは踵を返す。 このままここに居ても、いい事は何もない。絶対に、何一つだ。 「兄さん!聞えてるんでしょう?」 「………」 「ねぇってば!にーさーん!」 「あああもう、うっせーなさっきからぴーぴーぴーぴー!無視してんだよ、わかれよ!」 ―――ここで無視を決め込めないのが敗因だ、それはわかっている。 わかってはいるのだが、どうにもこの声には弱いのだ。相変わらず甘過ぎる自分にラグナは一つ舌を打ち、上を仰ぐ。 「あは、やっとこっち見てくれた!」 聞き慣れた声は、幻聴ではなかった。 廃城の中程、普通の建物にして六、七階程の露台から、弟のジンがこちらを見下ろしている。子供そのものの仕草で手摺を両手で掴み、身を乗り出している体勢が危なっかしい事この上ない。 落ちかけた夕日が邪魔をしてその表情は分からないが、おそらく笑っているのだろう。浮かれた声の調子で分かる。 「こんなガキが英雄…ねぇ」 「なぁに?兄さん、何か言った?」 「何でもねぇよ!」 風こそ吹いていないが、両者の居る距離が距離だ。自然、相手に聞えるように声を張り上げる形になってしまう。 「つーか、何でテメェがここにいやがる!」 「イカルガに来たついで!何か思い出すかと思って!」 「…あぁ?」 「結局無駄足だったけど…。でも兄さんに会えたから、無駄じゃなかった!ねえ兄さん、折角だから殺し合おうよ!」 ジンの物言いに引っ掛かるところがあったのだが、うきうきと後に続いた言葉に、感じた違和感も全て吹き飛ばされてしまった。秩序が通常運転すぎる。 弟が実兄に向ける殺意は、どうやら事象兵器(アークエネミー)だけの問題ではなかったらしい。再会してからというもの、一向にブレない弟の態度に兄は頭を抱える。むしろユキアネサの狂気が、本来のジンが抱える甘えに取って代わった分、性質の悪さが増してしまった。 「今そっちに行くから!動かないでね、兄さん!」 ジンはそう言うが、大人しく言うことを聞くつもりはない。幸い、ここまで降りてくるには一度城の中に戻る必要がある。弟の姿が見えなくなってから、とっとと逃げてしまえばいいのだ。 ジンに抱いていた憎しみも怨みも抜け落ちてしまった今、ラグナが弟と積極的に戦う理由は何処にもない。 「早くしろよ、でないと逃げちまうぞ?」 「駄目だってば…!」 口の端を上げ顎をしゃくると、弟はあっさりこちらの挑発に乗ってきた。 言外に逃げるなと宣言するや否や、露台の手摺に足を掛ける。何をと問う暇もない。次の瞬間には躊躇う事無くそこを蹴り、宙に身を投げていた。 ジンの肩から垂れる長い飾り布が、風を孕んで翼の様にはためく。 しかし当たり前だが、弟は鳥ではない。あっという間に重力に絡め取られ、真っ直ぐに落ちていく。 「マジかよ…っ!?」 馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、まさかここまで馬鹿な奴だとは思っていなかった。 一瞬だけ固まったラグナは、しかし直ぐに我に返ると、ジンの落下地点を目指して走り出す。流石に、目の前で実弟がミンチになるのを黙って見ている訳にはいかない。 向かってくるラグナの姿を認め、ジンが翡翠の目を見張る。そうして、嬉しそうに微笑んだ。薄い唇が「兄さん」、兄を呼ぶ形に動く。 白い手袋に包まれた右手が、ほぼ真下にたどり着いたラグナに向かって伸べられた。その拍子、地面と並行に向いていた体が、文字通り真っ逆さまにその体勢を変える。着地だとか受け身だとかの問題は、ジンの頭の中には無いようだった。 落ちてくる。 弟が、自分の姿を追って。 ズキリと、頭の奥が疼くように痛む。 ―――圧倒的な既視感。 統制機構のカテドラル、そこでジンと対峙した時に襲われた眩暈と同じだ。 これと似た光景を、知っている。 自分の記憶の中にない記憶。けれど、"ラグナ"は確かにそれを知っていた。 落ちてゆく。 長い長い境界へ続く道を、ひたすらに落ちてゆく記憶だ。 (境界―――窯…か?) 確かに、ラグナは一度窯の中に落ちた。けれどあの時、自分を救い上げたのは妹によく似た少女の、柔らかい手のひらだ。あの場所に、弟は居なかった。 (でも…俺は知っている) 己を呼ぶ悲痛な声を。 血にまみれた腕が、もがく様を。 千切れた羽根のようにたなびく蒼を。 ―――兄を追って落ちる、弟の姿を。 何十回、何百回と繰り返し…繰り返し。 (ただ黙って、見ている事しか…) ラグナの為だけに伸ばされ続けた、細い指。 結局最後まで掴んでやることが出来ぬまま、ループは終わりを迎えた。 ―――あの手を取らなければ。 それは強迫観念にも似た、強い衝動だった。 今、両の足は地を踏み、"あの時"は力なく垂れるばかりだった腕も容易く上がる。 あの手を、取らなければ。 例えそれが、共に落ちゆく結果には変わり無いとしても。 「ジン!」 突き動かされるように、ラグナもまたジンに向かい手を伸ばす。左手に触れる、ひやりとした体温。 漸く掴んだ手のひらはラグナのものより小さく華奢で、けれど確かに青年のそれだった。離してたまるかと、硬く指を絡ませる。 そのまま強く引けば、ジンの体は過たず、ラグナの胸に飛び込んできた。全身でぶつかってくる体を、もう片方の腕でしかと抱き止める。 しかしいくら平均よりずっと体重の軽い弟とはいえ、それなりに身長のある男が相手だ。案の定支えきれず、強かに地面に腰を打ち付けてしまう。 「―――ってぇ…」 それでも不様に倒れ込まなかったのは、兄としての意地だ。 未だバクバクと跳ねている心臓の音が煩い。圧し掛かっている体の重みを、弟の無事を確かめるように、手のひらが薄い背中をなぞる。 「おい、ジン…?」 ラグナの胸に顔を埋めたまま、ジンはぴくりとも動かない。何処か、打ちどころでも悪かったのだろうか。 だが、そんな兄の心配は杞憂に終わった。 「…動かないでって言ったのに」 稚気を含んだ声音が、ラグナの耳を打つ。兄を自らの下敷きにしたまま、どうやら弟は笑っているらしかった。くすくすと肩を震わせながら、猫の様に額を擦り付けてくる。 「あんな焦ってる兄さん、久しぶりに見た。可笑しい…」 反省の欠片も見せない弟の姿に、兄の安堵はあっという間に怒りに変わった。 「この…馬鹿がっ!」 手加減無しの怒声に、流石のジンも固く目を閉じビクリと肩を竦める。 だがその程度で下がる溜飲なら、ラグナもここまでキレてはいない。腕を掴んで寄り添ったままの体を引き剥がすと、弟を正面から睨み付ける。 そろりと上がった翠の双眸に映る己の顔は、焦燥に塗れ酷い有様だった。 「いい加減うぜぇんだよ、テメェは!来るなって言っただろうが!何度も、何度も何度も!それを毎回毎回無視しやがって、お前まで落ちる必要なんて…何処にも…っ!」 「にいさ…」 「どうして逃げない…?何で追い掛けてきやがる!俺はな、テメェと心中なんか御免なんだよ!」 頭の中がぐらぐらと煮えたぎっている。ラグナ自身でさえ、要領を得ない言葉だと自覚していた。妄想の域を出ない記憶を理由に詰られているジンも、それは同じだろう。気が触れたとでも、思われただろうか。 伝わらないもどかしさに、ラグナはギリと歯を鳴らす。 ただ、簡単に己を捨ててくれるなと。こんなどうしようもない兄の為に、お前が身を投げうつ必要などないのだと、言いたいだけなのに。 「…逃げないよ。兄さんを置いて、逃げられる訳ないじゃない」 弟の声に、思考の海に沈みかけていた意識が引き戻される。 綺麗な形の眉を八の字に下げて、ジンは僅か、困ったように微笑んでいた。 「テメェ、何笑って…!」 「ねぇ、兄さんも…"知ってる"の?」 困惑するでも、訝しむでもなく。"兄が何を言っているのか"を理解しているような弟の口振りに、ラグナは目を見張る。 「僕もね、よく夢に見るよ。兄さんを追って…落ちていく夢」 さっきの感覚があんまり似てたから、思い出しちゃった。 手持無沙汰に、ジンが長めに伸ばしたサイドの髪を弄る。 「動かない体を引きずって、何度も何度も落ちて…落ちて。どんなに手を伸ばしても、いつも兄さんには届かなくて…」 逸らされた視線を辿った先。そこには、未だ互いに繋がれたままの手のひらがあった。ジンはそれを愛おしそうにもう片方の手で包み込み持ち上げると、兄の指先に唇を寄せる。とても、尊いものにするように。 「…でも、やっと届いた」 そうしてふわりと、花が綻ぶように笑った。 邪気のない弟の笑顔に、兄は憮然と口を噤む。そんな風に微笑まれては、もう何も言えないではないか。 とはいえ、このまま許してしまうのも癪だった。せめてとジンの頭に手を伸ばし、そこをぐちゃぐちゃに掻き混ぜる。表情だけはしかつめらしさを崩さぬまま、一頻り手触りのいい金糸を撫で回した後、もう一度小振りな頭を胸に引き寄せた。 「…もう、二度とすんな」 「どうだろう…。だって、誰にも渡したくない」 「やらねぇよ。全部、お前のもんだ」 「本当?じゃあ、僕に…殺されてくれる?」 「―――いつかは…な」 曖昧な返事だったが、弟はそれで満足したようだった。今度は丁寧に髪を梳いてやると、甘えるように体を寄せてくる。「兄さん」とラグナを呼ぶ声は、まるで砂糖でも塗したようだ。 すっかり幼児返りしてしまった弟をあやしながら、兄はその「いつか」を考える。 最後にこの目に映すのは、きっと弟の姿だろう。今正に事切れようとしている兄を見つめる弟は、本懐を遂げて綺麗に笑っている筈だ。 兄さん、睦言のように囁いて―――血濡れた氷刀を、己が首筋に押し当てて。 大丈夫、僕も…一緒だから。 そうしてまた、追い掛けてくるのだろう。 たった一人の兄の姿を。一片の迷いなく、自分の命さえ投げうって。 それこそ、境界の果てまでも。 ―――共に落ちていかずとも、それならば同じ事。 …やはり、こいつに殺されてやるのは無しだ。ラグナは胸中で、ひっそりと溜め息を溢す。 そうでなければ、どう転んでも行き着く先は無理心中に違いなさそうだった。 CTループの記憶がうっすらある兄弟。たまには通常運転の弟。 最初はただ落っこってきたジンをラグナが受け止めてキャッキャウフフていう、テンプレリリカルホモを目指してたのに、どうしてこうなった…← あと、CPの空投げ(対弟)で「ぴーぴー煩ぇよ!」って兄さんのセリフが好きです。CPのジンは、確かに煩い(笑) 2013.05.23. pixivにアップ 2013.05.26. 加筆修正 →TOP |