※舞台ブルーの設定で兄弟
 舞台見れてないので、細かい部分が違うかもしれません。ご了承下さい



 ラグナがその部屋の前を通りかかった瞬間、中から物凄い音が聞えた。
 形容するならば、それなりに重くて柔らかい"何か"を、勢い良く床に叩き付けたような音だ。それに紛れるようにして聞えた小さな呻き声も、彼の耳はしっかりと拾ってしまっている。
 今彼が居るのは、第十三階層都市カグツチ内の街中に建つ、小さな診療所だ。薄い木の扉一枚隔てた先で、その"何か"が蠢く気配が―――ここだけ抜き出すと完全にホラーの類だ―――するが、それ以上どうこうなる様子も無い。派手な物音に思わず足を止めてしまったが、ならば無視して立ち去ってしまった方がいいのだろう。その"何か"の正体を知っている身としては、それに越した事は無いと理解している。しかしだからこそ、己がそう出来ない事をラグナは自覚していた。
 自身への言い訳に一つ深い溜息を吐いて、扉の取っ手に手を掛ける。世の診療所のドアは大抵引き戸で、それはここも例外ではない。わざと音を立てて、乱暴に戸を開け放つ。

「…おいコラ、ジン。テメェ何やってんだ?」
「あ、兄さん!」

 べったりと部屋の真ん中に這いつくばっていた件の"何か"―――ラグナの実弟であるジンは、兄の声に伏せていた顔をパッと上げ、にこりと邪気の無い笑みを浮かべた。ラグナにのみ向けられる媚びるような声音は、相も変わらず胸焼けがしそうな程に甘い。
「何って…兄さんの気配がしたから、追い掛けようと思ったんだけど…」
 弟の言う通りなのだろう。ベッドの上のシーツはマットの右半分にぐしゃぐしゃに寄せられていて、とても寝惚けてそこから落ちましたという感じではなかった。そもそも、窓際に置かれたベッドから今ジンがいる位置までは、少し距離がある。
「あー、そうかよ。それで部屋のど真ん中でぶっ倒れてりゃあ、世話ねぇな」
 もう一度言うが、ここは街中の小さな診療所だ。そしてそこで世話になっているラグナたち兄弟は、当たり前だがれっきとした怪我人である。ことジンに関しては、重傷患者と言ってもいい。何せ見ての通り、一人では歩く事すら儘ならぬのだ。
 もちろん、彼らがこのような状況に陥っているのには訳がある。
 今となっては遠い昔。ラグナの右腕を切り落とし、養母を殺し、弟妹たちを連れ去った全ての元凶、ユウキ=テルミ。宿敵である彼の男との交戦の際、テルミの凶刃からラグナを庇い、ジンはその身に深手を負った。
 約十年振りの再会からこっち、目を合わせ口を開けば「殺し合おうよ」と剣を向けてきた弟だ。そのジンが、あの時どうして自分を守ろうとしたのか。先の戦いから数日が過ぎた今でも、ラグナは未だ聞けずにいる。
「怪我人は大人しく寝てろ。ばーか」
 ただ一つだけ分かるのはこの腕の中、力無く倒れ込んで来た弟の体を抱き止めた瞬間に、ラグナの内にあったジンへの恨みも憎しみも、綺麗に消えてしまったという事だけだ。
「酷いなぁ。…でも確かに、こんな体じゃ兄さんと遊べないね」
 ごめんね兄さん。殺してあげるのは、また今度だ。
 兄の内心など知りもしない弟は困ったように眉尻を下げ、そのままの体勢で器用に両肩を竦めてみせた。僅かな身動ぎだけで上体すら満足に起こせないジンの姿に、ラグナの眉間に深い皺が寄る。
 大体自分の体の事なのに、何でそう他人事のような口振りなのだ。
「―――ったく、世話の焼ける…」
 がしがしと自身の髪の毛を掻き混ぜると、ラグナは未だ床と仲良くしているジンの傍にしゃがみこむ。
「え…?わ、ぅわ…っ!」
 そうして猫の仔にするように弟の寝間着の襟首を掴んで引き起こすと、背中と膝裏を両腕で支え、よっこらせと横抱きに抱き上げた。
 肩に担ぐより体に負担のない運び方だと思っての所詮姫抱きだったが、兄の行動は弟にとって予想外のものだったらしい。ぽかんと口を開け暫しラグナの顔を見上げていたジンは、数度忙しなく両の目を瞬かせた後、白い頬にカッと血を昇らせた。自由の利かない体をもじもじと揺らし、必死にラグナの手中から逃れようとしている。
「なっ、にっ…兄さん!何…っ !? 」
「うるせぇな。暴れんなよ、落とすぞ?」
「や、やだ…っ!」
 そう言って腕から力を抜いて見せれば、慌てて首にしがみついてきた。まさか、本当に落とすとでも思われたのか。信用が無いにも程がある。
 しかし、たったの数日だ。ほんの三日か四日寝たきりになっていただけで、腕の中の弟の体は随分と軽くなっていた。
 ―――否、原因はそれだけではない。今のジンには、意識がある。白い肌についていた傷は消え、血と埃に塗れていた金の髪は本来の輝きを取り戻し、布越しに伝わる体温は微熱の所為で熱い。間違いなく、生きた人間の体だ。
 だからもう何も心配する事は無い。あの日、あの時とは違うのだ。
 しかし頭とは裏腹、腹の底がすうっと冷える感覚に、ラグナは胸中で頭を振る。
(…大丈夫だ。俺は何も、なくしてなんかない)
 目の前で舞った血の赤を、色を無くした唇が笑んだ形を、暗く陰った翡翠が瞼の裏に消えた瞬間を―――何時までも脳裏にちらつくジンを喪うイメージを、追い払うように。
 大丈夫だ。ジンは―――ラグナのたった一人の弟は、ちゃんと生きてここに居る。
 吐いた溜め息は紛れもない安堵だったが、どうやら弟は違う意味で取ったらしかった。呆れとでも思ったのか、腕の中の体が僅かに強張る。大人しいに越した事は無いので、弟の勘違いは指摘せずにおいた。
 寝台までの距離はたったの数歩だ。真白いシーツの掛かったそこにジンを降ろし、腕を引く。―――否、引こうとした。
 結論から言うと、ラグナの行動は未遂に終わった。ジンが兄の首にかじりついたまま、離れなかったからだ。
「おい、ジン…」
「…やだ」
「あ?」
「―――はなしちゃ…いやだ」
 ラグナの肩口に頭を埋めているせいで弟の表情は窺えないが、回された腕が微かに震えているのがわかる。
「もう少しだけ…このまま…」
 おねがい、にいさん。
 この世の終わりのような声で告げられたのは、他愛のない我が儘だった。幼い頃ですら滅多に聞かなかった弟からの主張に、兄の眉間の皺は益々深くなる。
 弟の駄々が嫌な訳でも、煩わしい訳でもない。むしろその逆だから、困るのだ。身内贔屓な自分の性根が顔を出し、この泣き虫をどこまでも甘やかしたくなってしまう。そうでなくても昔から、ラグナは弟の泣き事に弱かった。月が落ちてくると不安がっては涙を流す度に、同じベッドで一緒に寝てやる程度には。
 兄は内心で苦虫を百匹ほど纏めて噛み潰してから、寝台に横たえかけた弟の体をもう一度抱き上げる。おずおずとこちらを窺うジンの翡翠は、たっぷりと水気を含み湖面のように揺れていた。
 そのままベッドの縁に腰を掛け、今度は自分の足の間に弟を下ろしてやる。少しでも楽な姿勢になればと立てた片膝に背を、左の肩口に小さな頭が凭れるよう促せば、存外素直にその身を任せてきた。
「構わねぇよ。お前の気の済むまで、こうしててやる。…幾らでもだ」
 空いた手で戯れに梳いた髪は、幼い頃そのままの感触で指に馴染む。
「これからはお前のしたい事、俺にして欲しい事…何でも言やいい。お前の言う事なら、聞いてやる。…聞ける範囲ならって、条件付きだけどな」
 例えば、殺してあげるとか殺されてくれだとか。そういうのはナシだと。
 こちらの真意を問うように見つめてくる弟の緑瞳を、見返す事暫し。ジンは不思議そうにコトリと首を傾けると、一言。
「…僕、サヤじゃないよ?」
「んなもん、見りゃわかる」
 サヤにまで刀片手に追い掛け回されたら、流石のラグナでもちょっと泣く。そんな奇行に走るのは、目の前に居る愚弟だけで充分だ。
 ラグナの応えに、ジンは益々困惑した様子で形の良い眉をハの字に下げる。
「可愛くない弟でも…いいの?」
 剣を交えた際に口走った罵倒を何時までも引き摺っている弟に、後ろめたさを感じている兄は、不機嫌に口元を曲げる事しか出来ない。
 確かにサヤと比べるような発言は軽率だったかもしれないが―――何せこの弟は、妹に対する妙な嫉妬を今も抱えたままらしい―――、それでもあんなものは、ただの売り言葉に買い言葉だ。兄よりも余程賢い弟なのに、それを理解していないなんて。
 第一少しの情も無いならば、とっくの昔にこの頼りない痩躯をほっぽり出しているし、そもそもこれの存在など端から無視しているだろう。それどころか、再会した瞬間に斬り捨てていてもおかしくない。
 兄の甘さは、何も妹にしか向けられていない訳ではないのだ。その事を、この弟はわかっていない。ラグナに愛されているのはサヤ一人だけだと、そう思っている節がある。
「…そうやってしおらしくしてる分には、まだ可愛げもあるから安心しろ」
 狭い額を軽く指で弾けば、腕の中の空気が漸く緩んだ。甘い声音で「いたいよ」と言われても、非難にすらならない。
「つーかテメェは、俺の言う事を何でもかんでも真に受けるんじゃねぇっての」
 己の素直でない性格は、ラグナ自身が一番自覚している。柄でもないと気恥ずかしさが先立って、どうにもひねくれた言葉ばかりが出てきてしまうのだ。ならばせめてと抱き締める手に力を込めるが、果たしてジンには伝わっているのかどうか。
「…真に受けるよ。だって、兄さんの言葉だもの」
 軟化している兄の態度に安堵したのか、弟は幼い仕草で兄のジャケットの胸元を掴み、そっと瞼を伏せる。
「僕の全部は、兄さんで出来てるんだから。だから剣なんか振り回さなくてもね、兄さんは言葉一つで僕を殺せるんだよ」
 常人ならば、思わず閉口する程の依存っぷりだ。けれど、今までの人生の殆どを狭い世界で過ごした彼ら兄弟にとって、ジンの言葉は真理に近い。愛しさも、憎しみも、哀しみも。複雑に入り交った感情を震わせるのは、唯一互いの存在だけだ。ジンの言う"全部"がそれを指すなら、ラグナの方にも覚えがあった。
「…なら、よく聞いとけよ。一回しか言わねぇからな」
 自分の言葉一つが弟を殺すと言うなら、逆もまた然り。
「金輪際、勝手な真似なんかすんじゃねぇぞ。…テメェは黙って、俺の傍にいりゃあいいんだ」
 一度ならずあの忌々しい蛇に奪われかけ、それでも漸く取り戻した宝物だ。次は無い。誰に何と言われようと、二度と腕の中のこれを手放すつもりなど無かった。
 くすり、ラグナの耳元で空気が揺れる。「はい、兄さん」と肯定の囁きに満足した兄は、数分前に弾いた弟の額に今度はそっと口付けた。



pixivタイトル「例えば隣か腕の中」―――に弟がいればいいよね、っていうお話。
舞台の評判を聞いて、見に行けなかった事を激しく後悔しております。再演熱望。
オチを聞くと舞台の兄弟はあの後、色んな問題すっ飛ばして一緒に行動してそうで震える。ユキアネサとか破壊者と秩序とか、愛さえあれば関係ないよね☆、みたいな(笑)


2014.04.14. pixivにアップ
2014.04.20. サイト掲載