「ジンジン、逃げよう」

 部屋に入るなり開口一番、ジンの細い手を引いてタロはそう告げた。その指先から零れた書類の束が、バサバサと大袈裟な音を立てて床に散らばる。
 普段は明朗快活を地で行くルームメイトの剣幕に、ジンは戸惑うでもない。生徒会室の机に収まったまま、眼鏡のフレームの奥にある緑の目をゆっくりと瞬かせただけだった。
 むしろ驚いたのは、この場に居合わせたアカネの方だ。飼い主と大型犬のような二人の―――否、タロからの一方的なじゃれ合いこそ日常茶飯事だが、彼がジンに何かを強いているところなんて見たことがなかった。
「タロ…っ!どうしたんだよ、何かあったのか?」
 慌てて二人の間に割って入るも、タロがジンの手を離す気配は無い。酷く切羽詰まった様子で、今度はアカネに向き直る。
「アカネも手伝って。このままだと、ジンジンが連れてかれちゃう」
「はぁ?連れてかれるって…何処に?」
 要領を得ないタロの言葉に、アカネは眉根を寄せる。元々理路整然とした話し方をするタロではないが、それでもここまで意味のわからない事を言う事はない。一先ず、気が動転しているらしい友人を宥めようとした、その時。

「アカネ」

 ぽつりと落とされた呼び掛けに、タロもアカネも口をつぐんだ。今まで黙って二人のやり取りを見守っていたジンは、タロに掴まれた手はそのままに椅子から立ち上がる。
「ごめん。少し…二人だけにしてくれないか?」
 僅かに眉尻を下げた、ジンの苦笑顔。タロの態度の理由を知っている口振りだった。
「いいけど…また僕だけ仲間外れ?」
 何かと秘密の多い二人だが、今回ばかりは雰囲気が異常だ。頼って貰えない己の不甲斐なさには一度蓋をして、わざと冗談混じりに非難をすれば、ジンが小さく首を横に振る。
「―――後で、ちゃんと話すよ。アカネにも…全部」
 真っ直ぐにこちらを見つめてくるジンの目は、嘘を言っているようには見えない。そもそも、ジンは嘘が嫌いだ。一度口にした事を違える真似はしない筈。
 逡巡は一瞬だった。
「…約束だからな」
 それでも一つ釘だけ刺して、アカネは生徒会室を出ていった。
 友人の小さな背中を見送ってから、ジンが改めてタロに向き直る。薄い唇から漏れる溜め息は、聞き慣れたものだ。仕方がない奴だな、と。柔らかい苦笑と共に向けられるジンからの窘めは、タロが密かに好ましく思っているものの一つだ。
 けれど今、目の前にある涼やかな美貌は良く言えば凪いだまま。悪く言えば、何の感情も浮かんでいない。薄く色付いた唇から零れる第一声を、タロは判決を言い渡される罪人のような気持ちで待った。
「連れていかれる…か。―――僕のイカルガ行きは、学園の中でもまだ上層部の数人しか知らない筈…」
 イカルガ―――連合階層都市イカルガは、数年前から続く内戦地だ。争いが絶えず、今尚鎮静化する兆しすらない。
 その地への派遣命令が、ジンに下ったのだ。半年先の卒業を待たず、ただの学生から統制機構の衛士として、戦場に赴けと。
「…カグラから、聞いたのか?」
 カグラ。世界情報統制機構の最高司令官、カグラ=ムツキ大佐。士官学校に属しているとはいえ、一介の学生の会話に上るには不釣り合いな名前に、しかしタロは苦く笑う。
「そうだよ。なんとなく…気付いてたんでしょ?」
「…お前と知り合ってから、あれだけ仕向けられていた暗殺者がぱったりと途絶えたんだ。普通は、おかしいと思うだろう。気になって調べてみたら、ムツキの縁者にササガエの名を見つけた。―――大方、僕と同い年だからという理由だけで、カグラがお前を巻き込んだんだろうな」
 やはり、全て知られていたのだ。カグラが秘密裏に、タロをジンの護衛として送り込んでいた事も。そして、ジンを亡き者にせんと仕向けられた暗殺者たちの始末を、タロが受け負っていた事も。
 それでもただの友人を演じ続けるタロに合わせ、ジンも無知を演じてくれていたのだろう。薄々感づかれているだろうとは知っていたが、いざ本人の口から真実を突きつけられると、この場にへたり込んでしまいそうな程の脱力感に襲われた。まるで今まで張り詰めていた緊張の糸が、切れてしまったようだった。
「ごめんね。…今まで、黙ってて」
「どうしてお前が謝るんだ?おかしな奴だな」
「だってジンジン、怒ってるでしょ?」
 疚しい事をしていた訳ではない。嘘を吐いていた訳でもない。けれど本当の事を隠し続けて、ここまで来たのだ。騙していたのかと、罵られる覚悟は出来ていた。しかしジンは不思議そうに―――本当に不思議そうに、ことりと首を横に倒す。
「怒る…お前に?お前はただ、宗家筆頭の命に従っただけだろう。あの男の…カグラの、命に…」
「ジンジン…?」
 子供のような、無垢な仕種から一変。すう、と冷えた二つの緑瞳に、タロは僅か背筋を震わせた。
「―――見縊られたものだな。ムツキの現当主殿は、余程キサラギを手籠にしたいと見える」
「え…?」
 ジンの薄い唇が、引き吊るように歪む。嘲るような、自嘲のような、酷く歪な笑みだった。こんな顔をするジンを、タロは知らない。
「僕が当主になれば、キラサギを自分の良いように扱えるとでも思っているんだろう。だから、お前を僕の護衛に寄越した。…そうでなければ、宗家筆頭が他家の次期当主候補ごときにかまける理由が無い」
 思考が付いていかない、とは正にこの事だった。ポカンと口を開けたまま、タロはうつ向いてしまったジンの旋毛を見つめる。金糸に隠れてしまってその表情はわからないが、淡々と推測を語るジンの声音はひどく冷えていた。
「何で…?違うよ、兄貴はジンジンを心配して…」
 何故そんな思い違いをしているのかはわからないが、ジンはカグラが己の野心の為に、タロを護衛に付けたのだと思い込んでいるらしい。
 ジンがキサラギに引き取られて直ぐの頃から、カグラは彼を知っていたと聞いていた。初めて出会ったジンは、まだ十を幾つも越えていない子供だったのだと。
 確かに、カグラはジンがキサラギ家を継ぐ事を望んでいる。けれどそれはジンが思っているように、自分にとって都合のいい駒としてではない筈だ。
 尚も言い募ろうとしたタロの言葉を、ジンは首を横に振ることで拒絶する。頑世ない子供のような、頑なな仕種だった。
「もういい。―――もう、それも終りだ。二度とお前が…僕の為に手を汚す事も無くなる」
 繋いだままのタロの手に、もう片方のジンの手が添えられる。漸く上がった美貌は既に凪いでいて、柔らかくタロに微笑んでみせた。
「今度は僕の番だな。どこまで出来るかはわからないけれど…お前が卒業するまでには、内戦を終わらせておくつもりだ」
 ジンの手は白く細く、タロのものと比べるとずっと華奢だ。それでも指に出来た胼胝や手のひらの肉刺は、確かに剣を取り振るう者のそれで。この手が、あといくらもしない内に血に染まり、数多の命を奪っていくなど許せる筈が無かった。
「そんな事しなくていいよ!俺は、ジンジンを戦争に行かせる為に今まで守ってきたんじゃない!」
「タロ…」
「ジンジンには、ずっと笑ってて欲しかったから…。ほんのちょっとだって、傷付いて欲しくなかったから…!カグラの兄貴に頼まれたからだけじゃない。俺が、ジンジンを守りたいって思ったから、傍にいたんだ!」
 士官学校を卒業して統制機構の衛士となる以上、遅かれ早かれいつか必ず戦地に赴かなければならない時が来る。機構に仇なす存在を討つ事もあるのだろう。今までのようにいつまでもジンの傍にいて、守るなどできない。そんな事は、タロだって解っている。
 けれど、理解する事と納得する事は違うのだ。この日だまりを集めて作られたような色をした友人が、自分の手の届かないところでいなくなってしまうかもしれない。体は無事でも、心が死んでしまうかもしれない。タロにとっては、それが一番怖い事だった。
 堪らなくなって、繋がれたままの手を強く引く。ジンの細い身体は呆気無くバランスを崩して、タロの胸に飛び込んできた。薄い背中に腕を回し、抱き締める。
「ねぇ、ジンジン…一緒に逃げよう?統制機構も、イカルガもキサラギも…何も、関係無いとこにさ…」
 頬を寄せた髪は柔らかく、いい匂いがした。
「俺が守るよ。誰からだって、何からだって守ってみせる。だから…っ」
 腕の中のジンは一言も口を利かぬまま、タロの肩口に顔を埋めている。ずっとこうしてみたかった筈なのに、心は全く浮足立たない。

「―――好きなんだ」

 墓の下まで持って行こうと決めていた想いは、驚くほど呆気無く口から滑り出た。タロの言葉に僅か、ジンの肩が震えたのを感じる。ごめんと心の中だけで謝って、抱き締める腕の力をもう少しだけ強めた。
「ジンジンの事が、好きなんだよ…俺」
 鼻の奥がツンと痛み、視界がみるみるうちにぼやけ始める。慌ててきつく目を閉じたけれど、繕い切れなかった語尾が情けなく揺れた。
「何泣いてるんだ、馬鹿」
 くすりと、耳を擽るジンの声は甘い。聞き分けの無い子供を甘やかす、大人の声色だった。
「…泣いてない」
「そんな鼻声で言われても、説得力なんかないぞ?」
 細い右腕が上がって、タロの背中をあやすように叩く。ふとジンの纏う空気が和らいで、彼が笑ったのだと知った。体の強張りを解いて、胸元に懐くように頬を寄せてくれる。
「…今までありがとう、タロ」
「やだよ…。そんなの、もう会えないみたいじゃんか…」
 タロの体温が移ったのか、腕の中の体はいつもよりほんのり温かい。けれど少しでも気を逸らしたら、するりと溢れ落ちてていきそうで。力任せの抱擁は苦しいだけだろうに、ジンは不平の一つも言わずタロの好きにさせている。
 ―――それは決してタロの言葉に頷く事が無い故の、ジンなりの最大限の譲歩だった。
「お前に辛い思いばかりさせておいて、こんな事言える義理じゃないのはわかってる。それでも―――」 
 見返りが欲しかった訳じゃない。負い目になりたかった訳でもない。ただ傍で―――出来れば彼のすぐ隣で、守り寄り添っていたかった。それがジンの望みと反する事と、ずっとわかっていたけれど。

「士官学校(ここ)で過ごした間中、僕は…たぶん、ずっと―――幸せだった」

 曖昧な言葉は優しげな声音に紛れ、放課後の室内に消えていった。


逃避行は拒絶

(たぶんじゃなくて、幸せだって思って欲しかったんだよ)



リミハ後日談に感銘を受けてのタロジン。
タロの愛が海よりも深く山よりも高くて真顔になりました。タロ、ジンのこと好き過ぎるだろ。
成長したタロが見たいので、次回作ではマイちゃんと一緒にプレイアブル化して欲しいですね。そして宗家専用BGMはよ。

2014.11.06. pixivにアップ
2014.11.22. サイト掲載