閉じていた目を開けて、一番最初に感じたのは違和感だった。次いで眩暈と、ギシリギシリと痛む四肢。それから漸く、濃い薔薇の香りがふわり鼻腔を擽りだす。背中に当たるふかふかとした感触は、恐らく薔薇の絨毯だ。その上に、仰向けに転がっている。視線の先には、星の無い夜空とぽっかり浮かぶ白い満月。軋む首を巡らせれば、唯一の光源であるその月が"ここ"にあるもの全てを冷たく照らしていた。 ―――意識を飛ばしている間に、一体何が起こったのか。 柔らかな暖色の明かりを灯していた外灯の火は消え、視界一面を埋めていた赤い薔薇の花も、豪奢な造りの城も全てがモノクロームにその姿を変えている。まるで色の無い世界に迷い込んでしまったようだった。 しかし俗世から隔離されたこの不思議な場所ならばそういう事もあるのかと思い、青年は―――ラグナ=ザ=ブラッドエッジは考える事を止めた。代わりに盛大に顔を顰め視線を戻すと、己の頭上にある、自身をこの状況に陥らせた元凶を睨めつける。 「情けないわね、ラグナ。泣かせてくれるのではなかったの?」 歳の頃は十を一つか二つ過ぎた程。けれどその見た目に反し、"彼女"は数百年の月日を生きる異形の吸血鬼だ。白磁の肌に柘榴の瞳。長く伸びた見事な金髪は小さな頭の上、黒いリボンで左右二つに結わえてある。ピンと立ったそれらはウサギの耳を彷彿とさせ、実際ラグナは"彼女"の事をしばしば「ウサギ」と呼んでいた。 その元凶。彼女であり、この場所の主であり、ウサギである―――レイチェル=アルカード。レイチェルは大きな瞳を楽しそうに眇め、ボロボロのラグナを見下ろしていた。反撃に出ようとしても、本当に情けない事に身動ぎ一つもしんどい程の体たらくだ。 しかもラグナの視界の中、逆さに映り込んでくる少女を見るに、どうやら自分は彼女の膝に頭を乗せているらしい。所詮膝枕、完全に子供にする扱いだ。ムカつくことこの上ない、が。 「…今日のところは勘弁しといてやる」 ―――完膚無きまでに叩きのめされてしまっては、それも仕方のないことだった。 ラグナをこの場所に呼んだのはレイチェルで、しかし喧嘩を吹っ掛けたのは他でもないラグナの方なのだから、余計に立つ瀬がない。男の面目丸潰れである。 「弱い犬程よく吠える、とは言ったものだわ。ただでさえ浅い器の底を自ら晒すなんて、愚かに過ぎるわよ」 「うっせー、このクソウサギ」 普段ならばこの時点で、ラグナの頭は容赦なく地面に落とされている筈だった。だが今日のレイチェル嬢はご機嫌も麗しく、未だ膝の上にラグナの頭を乗せたまま、小さな唇に指の背を添えコロコロと上品に笑っている。苦し紛れの負け惜しみでは、彼女の感情を煽るには遥かに足りない。 ――― 一頻り下僕をからかい気が済んだのか。少女の白く細い指が、不意に青年の目の下をそっと撫でた。薄く微笑むレイチェルの表情からは、先程までの稚気が消えている。 「顔色が良くないわね。…眠れていないのかしら」 「……」 少女の言葉は疑問でなく、断定だ。黙秘を貫くラグナを気にする事なく、レイチェルはゆっくりと言葉を繋げていく。 「貴方が壊した窯は、一昨日で二つ…だったわね」 「―――ああ」 「…後悔、しているの?」 「…する訳ねぇだろ」 ―――後悔。 後悔なんて、している訳がない。 師であり親代わりでもある獣人の元を巣立ったラグナは、ただひたすら過去の復讐にその身を費やしていた。長年の悲願を達成する力を手にした今、それを行使した所で何を悔やむ事があるのか。 貧しくも幸せだったラグナの幼少期は、唐突に終わりを迎えた。何よりも愛おしく大切だった弟妹たちは奪われた。厳しくも優しかった養母は殺された。この世を統べる、世界虚空情報統制機構に。 奪われたものは、奪い返す。それから後は同じように、壊してやるのだ。ラグナを地獄の底に叩き落とした、統制機構を。そしてそこに連なる者たちを。 この恨みが昇華されるのならば、見ず知らずの他人の犠牲など、知ったこと事ではない。 「ただちょっとゴタゴタが続いて、寝る時間がなかっただけだ」 柘榴のような少女の瞳は、ラグナの隠す何もかもを見透かしているようだった。利己的な己の思考を悟られているような居心地の悪さに、ラグナは不自然にならぬようレイチェルから視線を逸らす。 そんなラグナの心境すら、彼女はお見通しなのだろうけれど。 「そう…。ならいいわ」 「それ聞く為だけに、俺をここに呼んだのかよ?」 「ええ、そうよ。貴方がいつまで経っても陰鬱とした顔をしているから、私自ら声を掛けてあげたの。感謝なさい」 高圧的な言葉とは裏腹、労わるよう頬に添えられた少女の手はひやりと冷たく、けれど柔らかい。恐らく、紅茶の入ったティーカップより重い物など持った事がないのだろう。この手が今は失われた魔法を操り、大の男を伸してしまうのだから、吸血鬼とは不思議なものだ。 そもそもラグナが子供から大人になる程の月日を共にしても、レイチェルの見た目には変化を感じられない。この場所と同じように、彼女もまた俗世からは切り離された存在なのだと、ふとした拍子に思い出される。彼女は数千の時を生きると言われる、魔の眷族だ。 ―――何時かは。 そう、自分も何時かは、彼女を置いて逝くのだろう。それは、レイチェルに付き従っている獣人の老執事も同じこと。とり残される者の痛みを、ラグナは知っている。だからレイチェルと過ごす時間は何処か息が詰まり、けれどそれ以上に安堵するのだ。 レイチェルは決して、ラグナを独りにすることはないと解っているから。 他の誰がいなくとも、自分の最期の時に彼女だけは傍にいるのだろうと。信頼に似た甘えを、ラグナはずっと抱え続けている。 「…返事が無いわね。聞いているの、ラグナ?」 「聞いてる…。けど…何だ?何か…すげぇ、眠ぃ…」 ―――どれくらいそうしていたのだろうか。 少女の小さな手の温度が青年の体温に溶け出した頃。ラグナの紅翠の瞳が、眠たげに瞬きを繰り返し始めた。眼差しから険が無くなれば、そこにあるのはごく歳相応の青年の顔だ。 「あら。ただの下僕が、主人の膝で惰眠を貪るつもり?躾の仕方を間違えたかしら」 「うるせぇな…。嫌なら落とせ」 痛みの引いてきた体をごろりと打って、ラグナはレイチェルの膝に顔を埋める。たっぷりと幾重にもフリルが重なったドレスは柔らかく、上等な枕そのもので心地良い。隙あらばくっつこうとする瞼に逆らわず目を閉じれば、ラグナを包む花の香の濃度が増した。 「…そうか。薔薇の、匂いだ…」 「…ラグナ?」 肺を満たす芳しい薔薇の匂いは、彼にとって少女のような吸血鬼の存在と等号で結ばれる。これは全てを失ったあの日から、変わらずラグナの傍にあった香りだ。その香りが、この不思議な空間にはそこかしこに満ちている。 ああ、だからかと。そう認識した瞬間に、すっと両の肩が軽くなった気がした。引き結ぶ事の多かった唇の端が緩み、その隙間から安堵の息が漏れる。 「ここは…お前の匂いがするから、落ち着く…」 最後の方は吐息に混じっていたが、人の外に居るレイチェルの耳には明確な形を持った言葉として届いていた。眠れないと目の下に隈を作っていた者とは思えない程呆気無く、ラグナは眠りの淵へと落ちたらしい。その寝顔からは師の元を離れてからこっち、ずっと眉間に刻まれていた皺が消えていた。青年の規則正しい寝息の合間に、レイチェルは一つ小さく息を吐く。 「―――締まりの無い顔…。呆れるわ」 「…なぁんか姫様、嬉しそうっスね―――ふぎゃっ!」 雉も鳴かずば撃たれまい。軽口の代償は重かった。この薔薇園にいたのは、ラグナとレイチェルだけではなかったのだ。主人の頭の横で一部始終を眺めていたギィに、レイチェルの平手が炸裂する。綺麗な弧を描いて吹き飛ぶ相棒を、同じく傍に控えていた使い魔のナゴが生温い視線で見送った。 「アンタも懲りないねぇ、ホント…」 「ナゴ」 「あいよっ、姫様!」 レイチェルの声一つで、でっぷりと太った黒猫はふかふかのクッションへと姿を変える。そこへ埋まるように背中を預け、少女は改めて膝の上に乗った青年の後頭部を見下ろした。 「…私に出来るのは、ただ貴方を観測(み)ている事だけ。そう思っていたのだけれど…」 たおやかなレイチェルの指が、ラグナの硬い髪にそっと絡む。青年の髪を撫でる吸血鬼の横顔は、我が子を慈しむ母親のようにも、愛おしい恋人を見つめる少女のようにも見えた。 「ねえ、ラグナ?目が覚めたら、お茶にしましょう。ヴァルケンハインが、アップルパイを焼くと言っていたわ。甘いお菓子に合う茶葉もあるのよ。最も…貴方みたいな粗野な男に、紅茶の味なんて分からないでしょうけど」 常にその日暮らしの青年の事だ、満足に腹も満たせてないだろう。午後のティータイムで足りないのなら、たまには夕食と寝床くらいは提供してやってもいいかも知れない。傍観者である己だが、そのくらいの干渉は許されるだろう。 ―――幾度目かの2199年も、既に半分を過ぎた。 後数カ月で、運命の日が来る。この事象も違い無く終わりを迎え、また百の時を巻き戻すのだろう。彼が闇に飲まれる度に何度でも、繰り返し、繰り返し。酷く一方的な、出逢いと別れを重ねながら。 けれど、今はただ――― 「―――年の瀬までは、まだ時間があるもの。だから今は、ゆっくりお休みなさい…ラグナ」 今はただ、彼の束の間の安息に寄り添い、見守る者でいたかった。 レクイエムステージが凄く好きっていうお話←。柄でもないって絶対口にしないけど、薔薇の香りがすると姫様思い出して安心する兄さんとかいいと思います。 ラグレイちゃんたちは、CT時間軸の時点では疑似親子でいいんです。ラグレイの本領はCSから。異論は認める。 2014.09.01. pixivにアップ 2014.11.22. サイト掲載 |