「兄さん…っ!」 第六階層都市ヤビコ。慣れぬ土地で酷く慣れ親しんだ声が聞こえた気がして、ラグナ=ザ=ブラッドエッジは足を止めた。振り返る。 視線の先には、果たして実の弟の姿があった。その後ろには、獣人の師も一緒だ。蒼い統制機構の制服を隠す為のローブを翻しながら、弟―――ジン=キサラギが、真っ直ぐ此方に駆けてくる。 「…ジン?」 どうしてお前がイカルガに…と続けようとしたところで、ラグナの頬にヒヤリと冷えた空気が当たった。気付けば弟の手には、いつの間にか彼の愛刀が握られている。 そして、抜刀。 「―――っ!??」 腰に刺してある剣を抜いたのは反射だ。 ギィンと金属の触れ合う耳障りな音が、晴れ渡った空に高く響く。 「あはっ、久しぶりだね兄さん!」 「オイイイイイイ!テメェ何やってくれちゃってんのおオオオオ!?」 ギリギリと鍔迫り合いをしながら、ラグナが絶叫する。動揺のあまり、思わず別作品の口調になった。中の人も出ている事だし、問題はないだろう。 ―――否、問題はそこではない。 「何って…やだなぁ、兄さんを殺そうとしたに決まってるじゃないか」 問題は、目の前でうっとりと恍惚の表情を浮かべているこの愚弟だ。ラグナの顔を見るなり、斬りかかってきたジンの方だ。まだ街に入る手前だったからいいものの、例えこれが雑踏の中であったとしても、弟の行動は何一つ変わらなかっただろう。 先のカグツチでの出来事を経て、ジンはユキアネサを真の意味で使いこなせるようになった筈だ。まさか再び、この妖刀が弟の精神を蝕み出したとでもいうのだろうか。 「ここで会ったのも運命だね、きっと!だからさ…殺ろうよ、兄さぁん!」 「この…馬鹿がっ!」 ユキアネサを弾いてジンから距離を取ると、ラグナは遅れて傍にやってきた獣兵衛に食ってかかる。 「おい、師匠!どういうことだよ、アンタが付いていてなんで…っ!」 「ハハハ。奇襲を掛ける時に態々声を出す奴があるか、ジン」 かつての師を睨み付けるも、目の前の猫又はカラカラと笑うばかり。挙げ句「そんな事じゃ、ラグナの首を落とせるのは当分先だぞ?」と、物騒な事まで言い出す始末だ。 「何笑ってんだ、師匠テメェコラァ!」 「ラグナも、久しいな。元気そうで何よりだ」 「呑気な事言ってんじゃねぇよ!」 唸り声を上げて師に詰め寄るが、獣兵衛は長い双尾をふらりと揺らし、 「呑気も何も、ジンは正気だ」 なぁジンと金髪の青年を見上げれば、先程兄へ向けていた笑顔は何処へやら。弟はむっつりと黙り込んで、獣兵衛からツンと顔を逸らしていた。困ったものだと、然程困ってなさそうに兄弟の師が笑う。 「あぁ?」 「しかし…ラグナを見つけて即斬りかかるようじゃあ、まだまだだな。お世辞にも秩序の力を制御出来てるとは言えん。午後の修行メニューは二割増にするか」 「…ふん」 同行者の存在を思い出し、興が削がれたか。ジンがユキアネサを鞘に納めるのを見届けると、獣兵衛は未だ釈然としていないラグナに向き直る。 「ラグナよ、俺たちは二、三日この街に滞在する予定なんだが…。折角だ、昼飯でも一緒にどうだ?」 どうせあまり、金も持ってないのだろうと。 そういえば昔から、変な所でマイペースな師だ。さっきまでの兄弟のやり取りなど無かったかのように、のんびりと食事の誘いを掛けてくる。 確かに、決して余裕のある旅路ではない。一食分の食事代が浮くのなら、ラグナにとっては有難い話だが。 「―――ああ、そうさせて貰うか。けどその前に…」 「わ…っ!」 有無を言わせぬ強さで弟の襟首を掴み、獣兵衛に向かって一言。 「コイツ、ちょっと借りるぜ?」 そうしてそのまま、ズルズルとジンを引き摺りこの場を離れて行ってしまった。その背中は、乱暴な扱いに抗議の声を上げる弟と共に、あっと言う間に遠ざかっていく。 「仲良くするんだぞ」という師の言葉は、果たして二人に届いたのかどうか。 「にーいさん」 「……」 「ねぇ、兄さん。こんな人気のない所に連れてきて、どうするつもり?」 「どうもしねぇよ、馬鹿かテメェは」 「なぁんだ、つまらないの」 街中に入ったラグナは、ジンの手を引き足早に路地裏を歩く。苛立ちを隠そうともしない兄を目の前に、けれど何故か弟の機嫌は上々だった。くすくすと笑いながら、子供のように繋がれた手を揺らしている。 そう、まるで幼い子供だ。 ユキアネサの支配から開放されたジンには、それまでの狂気とはまた違った危うさがあった。 他人と接する時はまだしも、ラグナと対峙している時は、体の成長にまるきり心が付いてきていないように思える。己の感情を隠す事なく、砂糖菓子の甘さで兄を呼び、無邪気とも言える残酷さで手にした剣を振るう。 そんな幼さが、言葉や仕種の端々に見え隠れしている。 「でも嬉しいなぁ。ここで兄さんに会えるなんて、思ってもなかった」 現に、今もこうやって。 つい数分前に放っていた殺気など忘れたかの様な顔で、ジンはその白い頬をほんのりと染め、ラグナとの再会を喜んでいた。 ―――全く、調子が狂って仕方ない。 都合良く行き当たった袋小路で足を止めると、ラグナはジンの方へと振り返る。 こうして弟と向き会うのは、カグツチで別れて以来か。獣兵衛の修行が厳しいのか、目元に薄い疲労の色が見えるが、それ以外は概ね元気そうだ。 安堵を溜め息の殻で包んで吐き出すと、ラグナは精々しかつめらしい顔を作って弟を見やる。 「お前なぁ…。顔見せんなとは言わねぇから、今度からはもっと普通にしてくれ」 「…普通?」 「そう、普通。お前の甘え方はアグレッシブ過ぎて、兄ちゃんついていけねぇ」 お互い二十歳も過ぎた男兄弟同士で甘えるも何もないのだろうが、そこは身内に無条件で甘いラグナだ。気付いていない。 普通、ふつうとラグナの言葉を口の中で繰り返し呟いていたジンは、しかしやがてうつ向くと小さく頭を振った。 「そんなの、わからないよ。僕は…普通じゃないから」 そうして口許に薄い笑みを刷き、手にしたままだったユキアネサを胸元に抱き締める。 自分が普通でない事など、ジンはとっくの昔から自覚していた。 血の繋がった実の兄に愛してほしくて、自分だけを見てほしくて。 誰かに…妹のサヤに取られてしまうくらいなら―――殺してしまいたくて。 そんな人間が"普通に"なんて、土台無理な話だ。 「ジン…」 ほら、こうして兄が自分の名前を呼ぶだけで、狂おしい程心が掻き乱されるというのに。 すっかり肩を落としてしまった弟の姿を見て、ラグナはガシガシと自分の髪を掻き混ぜる。 急にしおらしくなられると、対応に困るのだ。金糸の奥に隠れている翡翠が濡れてしまってやしないかと、そればかり気になってしまう。 「ばーか…」 だからラグナは両の腕を伸ばすと、目の前にある弟の体を引き寄せ抱き締めた。途端、びくりと震えたジンには気づかないふりをして、薄い肩に顔を伏せる。 ラグナが覚えているのは、温かくて柔らかくて、日向の匂いがした小さな弟だ。十年ぶりに腕に抱いたジンの背は痩せていて冷たく、互いに成長したのだからとわかっていても違和感ばかり感じてしまう。 使い手に触れる黒き者の気配を感じた為か、二人の間に挟まれたユキアネサが、不穏な空気を発しざわめいた。 「…空気読め、ユキアネサ」 少し黙っていろと。敵の言葉を素直に聞いた訳でもないだろうが、ラグナが釘を刺すとユキアネサは不満げに刀身を震わせ、ジンの中に還っていってしまった。これで邪魔者はいなくなったとばかりに、弟を抱く手にもう少しだけ力を込める。 一方ジンはというと、兄からの突然の抱擁に大層驚き、すっかり固まってしまっていた。顔に当たる、兄の硬い髪がくすぐったい。ここまで近くにラグナの温もりを、匂いを感じた事など、それこそ幼い子供の頃以来で。瞬きをする事すら忘れ、ただ茫然と立ちつくすばかりだ。 「…オラ、腕」 「え…?」 「テメェも腕回せっつってんだよ、馬鹿」 言わずとも察しろと、兄の潜めた声が耳を掠める。 ユキアネサをなくし、手持ち無沙汰だった腕をおずおずと持ち上げ赤いジャケットの背にすがると、良くできたとばかりに頭を撫でられた。 「…甘えんのなんて、こうすりゃいいんだ。簡単だろ?」 ふ、と耳元の空気が揺れたのは、兄が笑ったからだろう。 いつも苦虫を噛み潰した様な顔の兄ばかり見ているから、笑ってくれているのなら顔が見たい。けれど自分を包むラグナの腕が心地よくて、ジンは未だ身動ぎ一つ出来ずにいる。 兄の肩口に紅潮した片頬を押し当てたまま、ゆるゆると髪を梳く武骨な指の感覚に誘われ漸く、弟は長い吐息と共に体の力を抜いた。ユキアネサと共にありだしてから下がってしまった己の体温が、兄のそれで徐々に温もっていくのがわかる。 とろり溶け出した思考の隅で、ジンはこの時間がずっと続けばいいと思った。たぶん、今の自分はとても幸せなのだろう。もしかしたら、兄と刃を交えている時と同じくらいか、それとも――― 「…無理。出来ない」 「―――何で」 「だってこんな…気持ちいいの、おかしくなっちゃう…」 それ以上に、満ち足りているのかもしれないだなんて。 うっとりと瞼を伏せ夢心地で呟いた途端、バリッと音を立てそうな勢いで寄り添っていた体を引き剥がされた。 突然の事に見開く視線の先では、兄が両手で弟の肩を掴んだまま、真っ赤な顔でぶるぶると震えている。 「兄さん?」 「う、ううううるせぇ!変な声出してんじゃねーっつーの、ばーかばーか!」 「馬鹿って…。嫌だったら、無理に抱き締めてくれなくてよかったのに…」 突如降ってきた罵倒に、訳も分からずジンは形の良い眉をハの字に下げる。 兄との間に生まれた、人一人分の隙間が寒々しい。先に抱き締めてきたのはラグナの方なのに、この仕打ちはあんまりではなかろうか。 「ちっげーよ!テメェがあんな…って、何泣いてんだよ!泣く事ねぇだろ!」 泣いてなんかない。ただ、何だか酷く惨めな気分になっただけだ。 けれど反論の暇も無く自然に下がった視界がぼやけ、翡翠の瞳からぽろり零れた滴が地面に落ちた。ぱたりぱたりと雨だれのように次々と地を叩く涙に、頭上で兄の慌てる声がする。 「ああもうわかった、わかったから泣くな!兄ちゃんが悪かったから!」 そうして再び、ラグナの腕の中に逆戻りさせられてしまった。ぐしゃぐしゃに髪をかき混ぜてくるのは、自分の扱いに困った時の兄の癖だ。 「う…うぅ…っ」 「ったく…。嫌だったら、そもそもこんな事しねぇよ。それくらいわかれっつーの…」 すっかりもつれてしまったジンの金糸を、ラグナの指がゆっくりと解いていく。 「とっとと泣き止め。この泣き虫」 頭を撫でる大きな手が耳の裏を滑り、ぐずぐずとラグナの胸元に顔を埋めていたジンの頬を捕らえた。そのまま、目線が合うように上向かせられる。革のグローブに包まれた親指が目尻を擦り、流れる涙を拭っていった。 「ひでー顔」 水の膜が消えた視界の中、揶揄する声音でラグナが笑っている。それは笑顔というより苦笑に近かったが、昔から自分が泣いたときに決まって見ていたそれは、ジンにとって酷く懐かしい兄の顔だった。 「しょーがねぇから、今日くらいは一緒にいてやるよ…ジン」 呼吸が痞えてしまう程の歓喜に、ジンの翡翠の瞳からまた新しい滴が零れる。途端、「だから何で泣くんだよ、テメェはっ!」と再び狼狽え出したラグナに手を伸ばし、先程教えられた通り存分に甘えるベく、弟はゼロ距離から愛しい兄に飛び付いた。 最後ら辺のは苦笑っていうか、ラグナの心境としては「あーもーこいつしょーがねーなー、相変わらず泣き虫でなー」というお兄ちゃん的なアレです。 ストックしてある話も含め、ちょっと弟泣かせすぎかなーとも思うのですが、ジンの泣き虫設定が可愛すぎるのがいけない。キサラギ少佐マジ天使。 2013.09.01. pixivアップ 2013.09.08. サイト掲載 →TOP |