「病人を殴るなんて、酷いと思うんだけど」
 頭にできた瘤を擦りながら、ジンが恨めしげに唇を尖らせる。
 今でこそ大人しくベッドに横になっている弟だが、ここまでこぎ着けるのにそれはもう大変な労力を使ってしまった。
 邪魔な蒼い隊服を脱がそうとすれば実兄をスケベ呼ばわりするくせ、早く横になれと言えばラグナごとベッドに潜り込もうとする。最終的にげんこつ一発で沈め寝床に押し込んだのだが、そこに至るまでの苦労を思えばとやかく言われる筋合いはない。見捨ててトンズラしないのだから、ありがたいと思って欲しいくらいだ。
 冷たい水で絞ったタオルをジンの額の上に放り投げ、ラグナはふんと鼻を鳴らす。そうしてベッドの隣に寄せた丸椅子に腰を掛け、膝の上で行儀悪く頬杖をついた。
「テメェが大人しくしないからだろうが。…気分はどうだ?」
「ん…」
「気持ち悪いとかはねぇか?何か食わないと、薬も飲めな―――」
「……」
「…んだよ」
 かと言って、急に大人しくなられても調子が狂うのだ。ぼんやりと兄を見上げてくる弟の視線は、ラグナを落ち着かなくさせる。
 十年振りの再会を果たしてからこっち、ほぼ狂気じみたジンの姿しか見ていないせいかもしれない。
「―――ううん、何でもない」
 素直にラグナの世話に甘んじているジンを見ていると、まるで幸せだった昔に戻ったようだった。だからという訳でもないが、無意識の内に伸びた手が、ジンの金糸をくしゃくしゃとかき混ぜる。そうすると弟は気持ち良さそうに翠の目を細めるものだから、兄の口の端もつられて緩んだ。
「…適当に、果物か何か持ってきてやる。それまで、いい子にしてろよ」
 少しでも何か腹に入れなければ、解熱剤も飲ませられない。下ろしたリンゴか、煮詰めた粥か。肉まんが出てくるくらいだから台所の設備はあるのだろうし、先ずはそこを覗いてみるべきだろう。診療所の主からも、何でも好きに使って良いと言質を取っている。
 やることが決まってしまえば、後は実行するだけだ。丸椅子から腰を上げ、しかし中途半端な体勢のままラグナは動きを止める。違和感を感じた先に視線を向ければ、赤いジャケットの裾を掴む細い指が見えた。それが誰のものかなんて、言うまでもない。この部屋の中には、ラグナとジンしかいないのだから。
「兄さん…」
 兄の行動を阻んだ弟の様子は、それは切羽詰まったものだった。動くのもしんどいだろう腕をいっぱいに伸ばし、爪が白む程に強く、それこそ縋りつくような仕種でラグナをこの場に引き止めている。
「何処…行くの?」
「どこって、お前…」
「嫌だ。兄さん…ここにいて…」
「おい…」
 教会にいた時でさえ滅多に聞かなかった弟の主張に、ラグナの眉尻が下がる。
 いい歳をした男が何を、と無視して出ていく事も出来たが、何となくそれは憚られた。昔は聞き分けの良かったジンの我儘が、珍しかったからかもしれない。
 体調を崩した時は、誰しも心細くなるものだ。妹のサヤも、熱を出して寝込んでは、ぴいぴい泣きながらラグナの事を呼んでいた。その妹の姿が、目の前の弱ったジンにだぶって見える。
「食い物と薬を持ってくるだけだ、十分もかからねぇよ」
 言外に直ぐに戻るからと含ませ柔らかい髪を撫でてやっても、ジンの手はラグナのジャケットに掛かったままだ。それどころか水の膜の張った目に険を滲ませ、兄の顔を睨め上げてくる。噛み締めた薄い唇の間から呻くように発せられた言葉は、紛う事無き恨み言だった。
「サヤには…ずっと付いてたくせに」
「ジン…?」
 兄の思考を読んだ訳ではないだろうが、弟の口から妹の名が出た事にラグナは目を見張る。それきり部屋に落ちた無言の時間を、先に壊したのはジンの方だった。
 長い睫毛が震え、伏せられ、発熱の所為で紅く染まった頬に影を作る。それの奥に両の翡翠が隠れたのと同時に、ラグナの服の裾を掴んだ指がぎこちない仕種で離れていった。
「―――ごめん…なさい」
 中途半端に起こしていた上体をベッドに戻すと、寝返りをうって完全にラグナに背を向けてしまう。その拍子、ジンの額に乗せていたタオルが枕の上にぽとりと落ちた。布団を被った薄い肩が震えているのに、気付かないラグナではない。 
「―――ったく、しゃーねぇなぁ…」
 自身の白髪を掻き混ぜ、兄は再度丸椅子の上に腰を下ろした。ぐす、と鼻を啜る音が聞こえたところで、手を伸ばし弟の体を引っくり返す。簡単にこちらへと向き直ったジンの両目からは、想像通りボロボロと大粒の涙が溢れていた。
「泣き虫は卒業したのかと思ったら…、相変わらずかよ」
「ふ…、ぅ…っ」
「あーもう泣くな泣くな、熱上がんぞ?」
 ジンの体温ですっかり温くなってしまったタオルを手に取り、涙でべしょべしょになった顔を拭いてやる。体調が悪い所為で子供返りしているのか、背中を丸めしゃくりあげながら泣くジンの姿は、懐かしくも愛おしい泣き虫小僧そのものだった。
「だって…にいさ…っ」
 両手で涙を拭う仕種は幼く、成人男子がするには薄ら寒いだけの筈なのだが、この弟にかかると全く違和感を感じないのだから恐ろしい。見目が良いのは得だと、あやすように日だまり色の髪をすいてやりながらラグナは思う。
 こうも悲壮感たっぷりに泣かれてしまっては、何でも言うことを聞いてやりたくなってしまうではないか。
「わーったよ。お前が治るまで、ちゃんと看ててやる。だから今は、少し眠っとけ」
「…ほんとう?」
「ああ、約束だ」
 すっかり腫れぼったくなってしまった目元を、指の腹でそっと撫でる。水を扱うのにグローブを外していた素肌に、弟の湿った体温が心地好い。暫くラグナの真意を計るように色違いの双眸を見つめていたジンだったが、やがて納得したのか小さく息を吐き、ふんわりと微笑んだ。
「うん…」
 泣いた烏がもう笑っている。頬に触れたままの兄の手を弟の両手が包み、きゅうと握りしめた。指先を掠める吐息は、熱が籠っていて熱い。
「兄さん」
「何だよ」
「にいさん…」
「うるせぇぞ、早く寝ろ」

「だいすき」

 暴れて、泣いて、体力も限界だったのだろう。幸せそうに口許を綻ばせたまま、ジンは潤んだ翡翠を薄い瞼の向こうに隠すと、あっさりと眠りの淵に落ちていってしまった。
 ものの数秒で寝息を立て始めた弟の顔を、兄が何とも言えない表情で眺める。看ててやると言った手前部屋から出ていくつもりはなかったが、こうもしっかりと左手を繋がれてしまっては、熱を冷やすタオルを絞る事も出来ない。否、それよりも問題なのは―――
 空いている右手で、ラグナは頭を抱える。
「病人がヘラヘラ笑ってんじゃねぇよ、ばーか…」
 それよりも問題なのは、弟の笑顔に中てられてしまっている自分だ。ずるずると頭から落ちてきた手のひらで、ラグナは己の口許を覆う。
 顔の表面が熱いのは、気のせいだと思いたかった。



「死神さん、キサラギ少佐の具合は…あら?」
 蒼紅の兄弟が診療所の一室に引っ込んでから暫し後。二人の話し声が聞こえなくなった頃を見計らって、ライチは患者が休む病室を訪れた。
 彼女の声に振り返ったのは兄であるラグナ一人で、その青年の顔には『丁度いいところに来た』とありありと書いてある。
「あー…わりぃ、ねーちゃん。何かこいつが食えそうなもんと、薬…持ってきて欲しいんだけど」
 どうにも歯切れの悪い物言いに、ライチは首を傾げるが、その理由は直ぐに知れた。ラグナの傍、無心で眠るジンの顔の横。とても大切なもののように、弟の両手が兄の左手を包み込んでいる。そのせいで、彼は動くことが出来ないのだ。
「あらあら。史上最高額の賞金首を捕まえておけるだなんて…。流石はイカルガの英雄さんね?」
「茶化すなよ」
 ラグナは渋面を作るで隠しているつもりだろうが、ほの赤い耳元を見るに照れているだけなのがバレバレだ。粗野な見た目に反し可愛い所もあるものだと、ライチはひっそりと微笑む。
「うふふ。仲良しなのは、良い事よ?それが兄弟だったら、尚更」
「……」
「キッチンにリンゴがあった筈だから、薬と一緒に持ってくるわね。…診療所の仕事も一段落したし、貴方も少し休憩したらどう?」
 少佐さんなら私が看てるから、タオたちと一緒におやつでも食べていらっしゃい、と。ライチの提案にラグナは少しの間思案し、けれど直ぐに首を横に振った。
「や、遠慮しとくわ。万が一俺がいない時に起きでもされたら、後々うるせぇし…」
「…そう。意外だわ、貴方…身内には甘いのね?」
 傍から見ていても、難しい兄弟だと思う。
 深い事情を知らないライチですら、そう感じる程に。
 その彼らがこうして互いに素直になれるならば、たまの風邪くらい引いてもいいのかもしれない。
 ―――医者としては、素直に喜べないところであるのだけれど。

「俺じゃねぇよ。こいつが…甘ったれなだけだ」

 揶揄するような言葉とは裏腹に、ゆるりと細まったオッドアイは優しい色をしていた。



"いい兄さん"の日なので、ラグナさんのブラコン力をフルスロットルにして頂きました。そしてジンからの「大好き」解禁。ボジョレーか。
ライチ先生ベースなので、出来ればもっとおバカな話にしたかったのですが…。相変わらずのワンパ展開でスイマセン。泣いてる弟を宥めるお兄ちゃんが好きです。


2013.11.23. pixiv、サイト掲載

TOP