陽介が目を開けると、そこには自分の部屋ではないものの、すっかり見慣れた天井が広がっていた。年季の入った木目に点々と浮かぶ染みは、確か片手の指では足りないくらいの数があった様に思う。
(何で俺、悠の部屋に……?)
 親友の家に泊まる約束なんか、していなかった筈。それになんだか、視界が悪い。室内だというのに、霧の中にいるような。これではまるで―――

『目が覚めた?』

 横合いから掛けられた声に、陽介は飛び起きた。弾かれた様に首を巡らせれば、ソファに腰を掛けたこの部屋の主―――鳴上悠が、端正な面に薄く笑みを浮かべ、こちらを見つめている。その背後、四角く切り取られた窓の外に広がる赤と黒に塗り固められた空を見て、陽介は言葉を失った。
 ―――やはりここは、テレビの中の世界だ。
「……ゆ、う?」
 何で俺達、こっちの世界にいんの?
 無意識に、陽介はメガネを探して学ランの内ポケットを探ろうとした。が、彼が身に纏っているのは寝間着代わりのスウェットだけで。もちろん、メガネなんかある筈もない。
 それに対し、悠はいつもの制服でも私服でもなく、ダークグレーのスーツにネクタイといった出で立ちだった。大人びた悠の容姿にはよく似合っているが、どうにも拭えぬ違和感がある。
『こっち側から引きずり込むの、慣れてないから力の加減がわからなくて……。怪我とかしてないか、陽介?』
 気遣わしげな声に反して、悠は上機嫌に微笑んだまま、小さく首を傾けた。さらりと流れた前髪の向こうで、金色の双眸が楽しげに揺れる。



 ―――こ……は……。

 この度……、稲羽市長に当選……ました、鳴上悠です

 史上初……現役……生市長という事で、至らぬ部分も……思いますが……

 稲羽と……ここに住む……の為に

 どうか、力を……貸して……い

 いいだろう?―――陽介



 そうだ。事件が解決してからも、癖になってしまっている雨の日のマヨナカテレビのチェック。そのマヨナカテレビに、悠が映った。
 反射とは恐ろしいもので、陽介は無意識の内に携帯を手に取り、一番上にあった悠の履歴に電話をかけていた。しかし手の中の携帯からは、機械音声が虚しく圏外を告げるばかりで。押し入れで眠っているクマを呼ぼうとしたところで、テレビの中から伸びてきた手に腕を掴まれた。もちろん、そこで陽介の意識はブラックアウトしている。
 そして現在に至るわけだから、やはりテレビの中に引きずり込まれたのだろう。目の前の、”悠”が言う通り。
「お前、悠の……」
『―――そう。俺はアイツ、鳴上悠の影……』
 悠然と足を組み換えながら、悠―――否、悠のシャドウが笑う。
「お前が出てきたって事は、本物の悠もこっちに来てるんだろ?お前、あいつをどこにやったんだよ!」
『さぁ?”オレ”を引っ張りこんだのは違う場所だから忘れた。けど、今頃必死になって俺を探してるんじゃないか?』
 嘲笑に歪んだ口元に、見下す事に慣れたような瞳。
「……あいつがいないのに聞くのも、フェアじゃねーと思うんだけどさ」
 まるで自分たちの時と変わらない、悠の影。
「悠の奴……お前が出てくるくらい、何を悩んでんだよ」
 陽介の言葉に、シャドウは意外そうに目を瞬かせた。不意を突かれた表情は、本物が見せるそれと変わりない。
『……へぇ。案外冷静だな、陽介。もっと動揺するかと思ってたのに』
「ばっか、今だって絶賛パニック中だっつの。……けどさ、悠がここまでシンドイ思いしてたのに、俺何も気付いてやれなかった。だったらせめて、あいつが溜め込んじまってるものくらい受け止めてやりたい」
 去年の春、出会ったばかりの彼がしてくれたのと同じように。今でも陽介は、あの時悠がいてくれたから、自分は救われたのだと思っている。
 知らず知らずの内に下がっていた目線を持ち上げ、陽介は悠のシャドウへと向き合った。

『―――帰りたくないんだ』

 親友として、相棒として、出来るなら同じだけのものを返してやりたい。
 しかし、ただそれだけの何と難しい事か。
『都会になんて、戻りたくない。大人に振り回されるなんて真っ平だ。八十稲羽(ここ)で、俺が、手に入れたものを、自分たちの都合で勝手に取り上げるなんて許さない。菜々子、叔父さん、里中、天城……クマ完二りせ直斗一条長瀬海老原も尚紀もこの町の全部、全部全部!全部……俺のものだ』
 ノイズ混じりの、マヨナカテレビの内容が思い出される。確か、史上初の現役高校生市長、だったか。
 二人がけのソファとローテーブル、それ以外が取り払われた部屋の床には、代わりにいつくもの段ボールが積まれている。その上に乗っているのは、片目の抜けたクマ型の達磨だ。壁には一面に悠の選挙ポスターと、そこに紛れ込む様に八十稲羽の景色や彼と関わりのある人物の写真―――勿論、陽介が写っているものもある―――が大量に貼られていた。模造紙に書かれた”鳴上悠”の文字の上には、当選を示す作りものの赤い花が咲いている。
 激しく誇張され、性質悪く歪んでしまった悠の本音。これはあと二カ月と待たずに稲羽を離れなければいけない彼の、寂しさの具現だ。
『そう……そして花村陽介。勿論、お前も俺のものだよ』
 それまで座っていたソファを小さく軋ませ、シャドウが立ちあがる。殊更ゆっくりと、テーブルを迂回して陽介の目の前まで来ると、視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
『”オレ”にシャドウが出なかったのは、それまで何もなかったから。でも八十稲羽に来て、”オレ”は空っぽじゃなくなった。その一番最初に”オレ”の中に入ってきたのが、お前。だからみんなの中でも、陽介は特別』
 悠の、特別。その言葉一つに危うく絆されそうになる思考を、陽介は頭を振って追い出す。
 本物の悠がこの場にいない所為かまだ霧が出ている所為かはわからないが、今のところシャドウが陽介に危害を加えそうな様子は無い。それどころか、シャドウはまるで壊れ物でも扱う様な手つきで陽介の髪を梳き、指の腹で頬を撫でてくる。ひたりと輪郭に添わされたてのひらは、ちゃんと人の温度をしていた。
『だからお前は、俺の一番近くに置いてあげる。この部屋に囲って、二度と出してやらない。俺だけを見て、俺の声だけを聞く……俺だけの、陽介』
 ―――前言撤回。
 うっとりと細められた金色に、ぞわりと背中が粟立った。危険を察知した本能に従い後退さった背中は、いくらも進まないうちにタンスにぶつかってしまう。ならばと精一杯突っぱねた腕は簡単にシャドウに捕らえられ、却って退路を潰してしまった。
「ち……っ!ちょ、ま、待てって何でそーなんだよっ、話が飛躍しすぎだろ!」
『そうでもないよ。俺はね陽介、もうずっとお前が欲しかった。お前が望む親友も、相棒もいらない。花村陽介って人間の意思も、男としてのプライドも全部無視して、女の子にするみたいに泣かせて、悦がらせて、ぐちゃぐちゃになるまで犯してやりたい。―――ハハ、引いちゃった?けど、これが”オレ”の本音。いつもスカした顔でお前の隣にいる、鳴上悠の本心だよ』
 嘘だ、と喉元までせり上がってきた叫びは、声にならなかった。シャドウの言葉が、悠の思いの全てではない。わかっていても、まるで頭から冷え切った水を被せられたようだった。グラグラと頭が揺れるのは、メガネ無しに長時間テレビの中にいるからか、それとも。
『なぁ、そうだろう?―――”オレ”』
 一際色を深めた金色が、愉悦を含んだ声音と共に部屋の入口に向けられる。
 つられて動かした視線の先には、今にも射殺しそうな強さでシャドウを睨みつけている、本物の鳴上悠の姿があった。



pixivで好評いただきました、影鳴花。
この後わたくし、アニメはドロップアウトしてしまったので、続きは書けなかったのです…(苦笑)


2012.01.12. pixivにアップ