昨日の夜、堂島菜々子が攫われた。
 二日前から降り続く雨が映した、マヨナカテレビ。郵便受けにに入れられた二通目の脅迫状に、いつもより帰りが早かった遼太郎。様々な偶然が、最悪のタイミングで重なってしまった結果がこれだ。
 テレビに菜々子が映ってしまっていた以上、犯人の―――生田目太郎の手から守ってやる事は難しかったかもしれない。今日でなくとも明日か、一週間後か。ほんの僅か、猶予が伸びただけの話だろう。
 ともかく、菜々子は生田目の手によってテレビの中に落とされ、その生田目も行方が知れず。叔父の遼太郎も犯人追跡の際に重傷を負い、病院から動けないでいる。

 たった一晩で、彼を―――葦原凪を取り巻く状況は一変した。

 けれど、嘆いている暇はない。今何より優先すべきは、あの霧に閉ざされた異世界から幼い従妹を救う事だ。
 その夜、結局一睡も出来ないまま朝を迎えた葦原は、身支度を整えると逃げるように誰もいない堂島家を後にした。八十稲羽に来て半年。住み慣れたと思っていた家は、叔父と幼い従妹を欠いただけで全く知らない場所の様に思え、家族一つ守れない葦原を責めているかの様にも思えた。
 ならば、早く取り戻してしまえばいい。急くばかりの気持ちが、ジュネスへ向かう葦原の足を早めさせる。
 時計の針はまだ朝の七時を少し回ったばかりだったが、少しでも早く、菜々子の近くへ行きたかった。

 営業時間中は人々が行き来するジュネスも、開店前はさすがに閑散としている。空に近い駐輪場をすり抜け、一番フードコートに近い裏の出入り口へ回ると、そこには既に先客がいた。
 その人物がどうして今ここにという驚きと、目に飛び込んできた鮮やかな青色への違和感に、葦原は目を見張る。
 感じたのは、視線か気配か。"彼"はこちらの存在に気付くと頭からヘッドフォンを外し、腰掛けていた自動車進入禁止用の柵から立ち上がった。
「やっぱり来たな」
 彼は―――花村陽介はCDプレイヤーの電源を落とすと、ゆっくりと葦原の元まで歩み寄る。いつものように「おはようさん」と声を掛け、手の甲でトンと肩を叩いてきた。
「花村、その格好……」
「ん?……ああ、心配すんなって。学ランと武器はこっち。学校が休みなのに、こんな朝っぱらから制服でジュネスん中ウロついてたら、目立っちまうだろ?」
 肩から下げている小さめのボストンバッグを揺らし、陽介は器用に片目を瞑ってみせる。
 下こそ八十神高校の制服なものの、見慣れない寒色のパーカーを纏った親友の姿はやはり違和感の方が勝ってしまい、葦原を落ち着かなくさせた。
「―――ここの開店は十時からだろ?」
「二十四時間オープンの食品フロア以外はな。ちょっとそっちに用があったもんで……ほら」
 カサリと音を立てて押しつけられたビニール袋の中には、ジュネスの総菜売場で売っているおにぎりが二つと、菓子パンが一つ。そしてハンドタオルに包まれたココアの缶が一つ、入っていた。
「どうせ、昨日の夜から何にも食べてないんだろ。朝メシ、一緒に食おうぜ?」
 言葉尻こそ上がっているものの、陽介の言い様は断定的だった。半ば強引に腕を引かれ、入り口横のベンチに並んで座らせられる。普段、他人に言動を強いる事をしない彼には珍しい仕草だった。
 陽介はもう一つ下げていた袋から焼きそばパンを取り出すと、行儀良く「いただきます」と手を合わせ、かぶりつく。それに倣い、葦原も手渡されたビニールの中から、五目飯のおにぎりを手に取った。が、どうしてもフィルムを剥がす所まで手が進まない。二度三度と開け口を指先で引っ掻いて結局、袋の中に戻してしまった。
「ごめん花村、やっぱり―――」
「いらないとか言うなよ?腹に何か入れとかないと、いざって時に頭も体も動かねーぞ」
 この親友に、正論で返される日が来るとは思わなかった。視線を舗装されたアスファルトに落としたまま、陽介はにべもない。
 仕方なく固形物の摂取は諦めて、喉を通りそうなココアを手に取ってプルタブを起こした。口を付けた缶の中身は既に温く、既製品ならではの過剰な甘さに、思わず眉根が寄ってしまう。
「―――甘過ぎ」
「血糖値上げるには丁度いいだろ?」
 そううそぶく陽介の手にあるのは、無糖のカフェオレだ。全く説得力が無い。不満が表情に出ていたのか、陽介は目だけで葦原を見やると、苦笑の形に唇を緩めた。が、その視線もすぐに逸らされてしまう。
 何か言いたげに開いては閉じるを繰り返した口元から、ようやく滑り出たのは「葦原」と自分を呼ぶ声だった。
「俺は、こんな時までお前に全部背負わせようなんて、思ってないから」
 普段の軽やかさが形を潜めた声音は、張り詰めていて硬い。長い睫をせわしなく瞬かせ、懸命に言葉を探しては拾い、繋げる横顔を葦原は黙って見つめていた。
「俺たちの事は気にすんな。お前は、菜々子ちゃんを助ける事だけ考えてればいい。もし途中で折れそうになっても、その時は俺が何とかする。お前にまで、失くさせたりなんかしねえよ……だから、葦原」
 色素の薄い、丸い瞳が真っ直ぐに葦原を射抜く。大切な人を奪われ、怒り、傷つき、哀しみながら。それでもその全てを受け入れ、乗り越えようとしている強さを持った瞳が―――

「大丈夫だ。俺が何とかするから」
 
 ああ、と葦原の唇から深い溜息がこぼれた。じわりと胸に広がる感情は紛れもない安堵の筈なのに、腹の底には鉛を飲み込んだかのような重さを感じる。

 ―――そんな強さも覚悟も、本当なら陽介だって抱える必要などなかったのに。

 そう思うと、何だか無性に目の前の体温が欲しくなった。葦原はゆっくりと上体を傾けると、陽介の肩に額を押し当て、瞼を下ろす。抱き上げた猫がそうするようにこめかみを擦り付けると、くすぐったかったのか、耳元を密やかな笑い声が掠めていった。手探りで捕まえた手のひらは冷えきっていて、随分と長い事待たせてしまったのだと知る。
 自分の行動など全てお見通しだというのなら、こんな所で待ち伏せてないで、家まで押し掛けてきてくれればよかったのに。
「花村……」
 大丈夫、と甘い声音が繰り返し耳を撫で、空いた方の手があやすように背中を叩く。まるで子供にするような仕草は、クマと暮らすようになって覚えたものだろうか。
 兄弟のようにじゃれ合う二人の姿を思えば、思考は連想ゲームの様に、葦原にとって妹と同じ少女の影を連れてくる。いつも遠慮がちに服の掴んできた小さな手が、躊躇いなく自分の手を握るようになったのはいつからだったろう。離してしまった今はもうわからず、代わりに縋るようにして掴んだ指に力を込める。

「……頼む、花村」

 傍にいて、離れないで。あの子を助ける力を貸して欲しい。
 救う術を持たぬまま失くしてしまったお前には、酷な願いだと解ってはいるけれど。

「任せろ、相棒」

 握り返される指の、声の強さが、葦原に棘の様な痛みをもたらす。
 その理由には、気付かないふりをする事しか出来なかった。



菜々子救出期間中、エントランスで「大丈夫だ、俺がなんとかするから…」って言う陽介が愛おしすぎて出来たもの。
陽介イケメンすぎる、抱かれて!番長に!←


2012.05.10. pixivアップ